8月11日の月曜日が,親和の前期成績の提出締め切り。学生には常々締め切り前にきちんと計画を立ててと偉そうに宣っていながら,その実,自分はと言えば,学生時代から染みついた行動傾向から全く抜け出せずにいる。とても適応的とは言えないからこそ,学生にはそうならないようにという老婆心での発言とお許しいただければよいのですが・・・。
さて,レポートを読んで評価するのは,時に苦痛で時に楽しい。文字通りVRの弱化とVRの強化が平行して走っているような状態である。まあもうひとつ,評価して提出することが最終的な強化(この場合の好子は教務課の職員さんの微笑み,それとも仕事を完遂することに対する報酬であるはずの賃金?)を受けているのだろうけれど。尤も,その強化も,より主観的には,何もしないでいると教務課からの催促という嫌子が出現するから,嫌子出現の阻止による強化であると言った方がより正しい気もする。
などという他愛もないことを考えていたら,大学院の研究法特論の授業の感想(だからレポートの内容そのものではないけれど)で,好子をいくつも発見している。たとえば,Skinnerを誤解していた,Darwinに影響を受けていたことすら知らずにいた,さらには,私が授業中に喋った中で印象に残った言葉として,「単一被験体の行動生起頻度を観察することの重要性は、事実を事実として観察し、解釈はしないことにある」をあげてくれた院生もいた。
そうなのである。事実と解釈・意味づけ(さらには理論)とどちらがより重要かと言えば,そこに現実として存在する事実なのである。それに意味づけをして解釈すると,何となく立派になったような感じがして,感心してしまうことがあるが,さて,その意味づけや解釈によって,その事実が理解しやすくなるのだろうか,それとも・・・?
正直に言えば,このことは,私自身それほど昔から理解していたことではない。学生時代だったか院生時代にだったかに読んだSkinnerのAre Theories of Learning Nesessary?という論文(今から半世紀以上前の1950に出版された)に書かれていたにも関わらずである。
2008年7月5日土曜日
初代に名門なし
このタイトルは,芝居の話である。もともと誰が言い出した言葉かは知らないが,私が知ったのは中村仲蔵という落語である。圓生か先代の馬生で聴いたのが最初(と言っても生で聴いたことはない)。
親和に着任して固辞していた大学院での指導を今年度から担当させていただくことになり,親和の修士の面白いと言っては言葉が違うかもしれないが,研究指導(臨床の指導はまた別個にある)の担当が決まるのが春学期が終わってからだった。今年度からは少しだけ早くなったが,それでも7月の初旬である。
昔の大学院と今の大学院では,院生の求めるものが異なっており,必然的に大学院の入試のありようも私の時代(もう20年以上前になってしまった)とは全くと言っていいほど別物になってしまった。つまり,大学院も大学入試と同様に,資格取得,大学の名前,あるいは偏差値といったような要因によって受験生から選択されて,受験対策もいわゆる大学入試と同様に過去問を検討するなど,文字通りの「お受験」である。そもそも,大学院を志す人数が昔とはかけ離れた桁数になってしまった。その評価はまた別問題だが,少なくとも記述的にはそうである。
この間の事情やそれに対する私なりの考えはまた時を改めたいが,要するに,私が大学院で正式に指導する学生の初代が決まったということである。そして,その3名を歓迎したいということである。私たちの周囲は様々な偶然に満ちている。それをある種の必然として「共時性」などという言葉で飾りたい人の心情を唾棄してしまうほど無粋でないつもりだが,それを学問の世界に,科学の世界に持ち込むのはどうにかして欲しいというのも正直なところである。それだけでなく,そうした偶然が良い結果をもたらすか否かは,あらかじめ決まったものでなく,その出来事の後でどのような相互的な関わりがあるかによって決まるにすぎない。共時性と喜んでことが足りるほど現実は甘くない。これからわずか1年半しかない時間だけれど,3名との関わりを私は「濃密な」ものにしたいと考えているとしたら,この3名はすでにこの時点で後悔してしまうのかしら。
こんなコメントをブログに書いてしまう教員を指導教員に選んだ3名にお願いがあるとすれば,どうぞどうぞ生意気になって欲しいということ。教えてもらうのでなく自ら学んで,私なんかはせいぜい踏み台程度にしか考えないで,成長してくれれば,あるいは少なくとも,共同研究者として一緒に研究を進めることができればと思う。
しかし,名門だなんて,このタイトルはちょっと大仰だったかな。
親和に着任して固辞していた大学院での指導を今年度から担当させていただくことになり,親和の修士の面白いと言っては言葉が違うかもしれないが,研究指導(臨床の指導はまた別個にある)の担当が決まるのが春学期が終わってからだった。今年度からは少しだけ早くなったが,それでも7月の初旬である。
昔の大学院と今の大学院では,院生の求めるものが異なっており,必然的に大学院の入試のありようも私の時代(もう20年以上前になってしまった)とは全くと言っていいほど別物になってしまった。つまり,大学院も大学入試と同様に,資格取得,大学の名前,あるいは偏差値といったような要因によって受験生から選択されて,受験対策もいわゆる大学入試と同様に過去問を検討するなど,文字通りの「お受験」である。そもそも,大学院を志す人数が昔とはかけ離れた桁数になってしまった。その評価はまた別問題だが,少なくとも記述的にはそうである。
この間の事情やそれに対する私なりの考えはまた時を改めたいが,要するに,私が大学院で正式に指導する学生の初代が決まったということである。そして,その3名を歓迎したいということである。私たちの周囲は様々な偶然に満ちている。それをある種の必然として「共時性」などという言葉で飾りたい人の心情を唾棄してしまうほど無粋でないつもりだが,それを学問の世界に,科学の世界に持ち込むのはどうにかして欲しいというのも正直なところである。それだけでなく,そうした偶然が良い結果をもたらすか否かは,あらかじめ決まったものでなく,その出来事の後でどのような相互的な関わりがあるかによって決まるにすぎない。共時性と喜んでことが足りるほど現実は甘くない。これからわずか1年半しかない時間だけれど,3名との関わりを私は「濃密な」ものにしたいと考えているとしたら,この3名はすでにこの時点で後悔してしまうのかしら。
こんなコメントをブログに書いてしまう教員を指導教員に選んだ3名にお願いがあるとすれば,どうぞどうぞ生意気になって欲しいということ。教えてもらうのでなく自ら学んで,私なんかはせいぜい踏み台程度にしか考えないで,成長してくれれば,あるいは少なくとも,共同研究者として一緒に研究を進めることができればと思う。
しかし,名門だなんて,このタイトルはちょっと大仰だったかな。
2008年4月15日火曜日
大学院M1ゼミ 教員による研究室紹介
今年度から担当することになった大学院のゼミ,事務連絡とアウトラインを紹介した第1回に続いてのきょうは,各指導教員の研究室紹介だった。
たいへいに申し訳ないことに,寝不足が祟って先生方のご説明を一部聞き逃してしまったのだが,全般的にはとても興味深いものだった。と,同時に私の立場である行動分析学のユニークさ(あるいは特異さ・異端さ)を痛感する時間だった。
何より,行動や症状の捉え方を形態的に捉えるか,機能的に捉えるかという違いが大きい。摂食障害であれ,心的外傷であれ,そこに見えている形態からアプローチしていくのか,それとも顕在的には同一であってもその行動の持っている働きの違い,逆に顕在的には全く異なる行動や症状であっても,その行動の機能の共通性に注目するのかには,臨床的なアプローチであれ,研究上のアプローチであれ,非常に重要な違いがある。他の先生方が基本的には前者のアプローチを採られていることから,私の立場の特異さ・ユニークさを,先生方を含めて理解していただければよいのだが・・・。幸い査定演習と研究法特論という時間が与えられているので,こうした内容についても適宜議論できればと思っている。
たいへいに申し訳ないことに,寝不足が祟って先生方のご説明を一部聞き逃してしまったのだが,全般的にはとても興味深いものだった。と,同時に私の立場である行動分析学のユニークさ(あるいは特異さ・異端さ)を痛感する時間だった。
何より,行動や症状の捉え方を形態的に捉えるか,機能的に捉えるかという違いが大きい。摂食障害であれ,心的外傷であれ,そこに見えている形態からアプローチしていくのか,それとも顕在的には同一であってもその行動の持っている働きの違い,逆に顕在的には全く異なる行動や症状であっても,その行動の機能の共通性に注目するのかには,臨床的なアプローチであれ,研究上のアプローチであれ,非常に重要な違いがある。他の先生方が基本的には前者のアプローチを採られていることから,私の立場の特異さ・ユニークさを,先生方を含めて理解していただければよいのだが・・・。幸い査定演習と研究法特論という時間が与えられているので,こうした内容についても適宜議論できればと思っている。
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