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2008年12月24日水曜日

またいい本が出ました

舞田竜宣・杉山尚子 (2008). 行動分析学マネジメント: 人と組織を変える方法論 日本経済新聞出版社

応用行動分析を中心とした,行動分析学の臨床系の本がこのところ多く出版されるようになってきた。そんな中で,島宗理先生(現法政大学)のパフォーマンスマネジメント以来,行動マネジメント系のよい本が出版されました。

集英社新書の行動分析学入門も版を重ねているとお聞きしたが,この本もそうなりそうである。目次を見れば一目瞭然,架空の会社を想定して現実場面における問題の捉え方,介入の方法の具体例を紹介しながら,強化,弱化,消去,スケジュールなどから,確率操作,ルール支配,トークンまで,行動分析学の基礎を学ぶことができる。

ビジネスの世界なんか私には関係ないと,最初からルールを消去の弁別刺激にしないで,ぜひ手にとって目を通して欲しい。

12月12日のコメントで紹介した2冊は現時点で吉野が借り出しています。ご希望の方は図書館または吉野まで直接ご連絡ください。

2008年7月3日木曜日

ちょっとおめでたいこと


あまり書きたくない日々が続いていたのだけれど,ちょっとおめでたいことは書いておきましょう。7月1日は150周年。この写真のSir Charles Darwinが,Alfred Russel Wallacesと共同(と言っても,両名ともその場は欠席していたのだそうだが)で,進化論のアイディアをThe Linnaean Society of Londonで発表したのが1858年の7月1日。Darwinがいなくても,やがて進化論は新しい生物学を率いることになったのだろうが,誰がその始祖であったとしても進化論的な考え,とりわけ変異と選択(Variation and Selection)無くしては,行動分析学も生まれようはなかった。古典的行動主義であるWatsonの機械的連合論にも,刺激と反応との媒介過程(今の認知心理学などの基盤である)を探る新行動主義にも,Skinnerの言う変異と選択は含まれていない。

そのSkinnerが亡くなって,もう18回目の夏を迎えようとしている。彼の基本的な考え,そして行動分析学に基づく活動が変異と選択を経て,さて,最終的に淘汰されてしまうのかどうなのか。私にはそれほど悪くはない現状と,とても楽観的な展望が開けているように思えるのだけれど・・・。

2008年4月29日火曜日

脳が意志を持つ?

最近飛ぶ鳥を落とす勢いの茂木さん。きょうもNHKで持論・すべては脳が意志を持ち,脳が行っているというトートロジーを展開している。脳が飽きる,脳がつまらないと思う,脳が不確実なことと確実なこととのバランスを取ろうとするetc.。「脳」を「私」に置き換えても,「人間」とか「自分」に置き換えても,全く意味は変わらない。

動物は飽きられない,人間だけが飽きられる,ひとつひとつの発言がもう意味不明である。「飽きる」をどのようにていぎするのだろう,「脳は変わることができる」ということばと,「人間はかわることができる」以前に,「人間は経験によって変わる存在である」という行動分析学の基本理念と,どちらが「何かを説明」しているのだろうか。変わることや判断することや脳が行っている活動を否定する必要はないし,それは事実だが,それは何によって生じている活動なのだろう。

「脳」の活動,機能が,「こころ」であること,「脳」の構造はその入れ物であることは,もはや否定使用のない事実であるが,脳を擬人化することは本当に奇妙に響く。クオリアを理解したいという話と,彼が最近様々なメディアを通じて発言していることとの弁別をして欲しい。少なくとも,発信する彼でなく,それを媒介するメディアに判断する力を持って欲しい。彼の発言のいくつかは,スピリチュアルだとか,一時期の「あるある」と変わらない。「あるある」の一時期と同様に,「科学」のふりをしているぶんだけ一層悪質である。

ちょっとだけ擁護すれば,彼もいっぱいいっぱいなんじゃないかな。要求されたことに応えようとする,ナイーヴな良心の故に,あるいは,顕示性のためにきちんとわかっていないことまで,それなりに応えようとしているのではないかしら。それが不憫というか痛ましくさえ見えてしまうのである。

2008年4月23日水曜日

ファイルのダウンロードについて

結局理由はわからないのですが,通常の方法でダウンロードできるようになっているようです。おそらく,Googleのシステム上の問題だったのでしょうか。私は,このようなときに,日頃が便利なだけによけいいらいらしてしまいます。いろんなことが便利になったぶんだけ,しばらくの時間待つとか,我慢するとかいった行動が生じにくくなっているのかもしれません。最近の若者は切れやすいといった表現を安易に使ってしまいがちですが,それを性格や気質の問題にでなく,環境との関わりによって考えてみれば(つまり,行動分析学的に考えてみれば),何かが見えてくるような気がします。

2008年3月17日月曜日

公開講座

昨年の7月とこの3月にそれぞれ2コマ分2回ずつ,計8コマで,行動分析学入門という公開講座を担当させていただいた。基本的には,授業で扱っている内容を,心理学を専門としない方々にわかりやすく,また使えるものという意図で構成してみた。

きょう,8, 15日の受講生の方々へのアンケート結果のまとめをいただいた(土曜日に集めたもののまとめをもう月曜日に!!)。多くの方が楽しんでくださっていたというのは私にもとても嬉しいことだった。ただ,個人的には,3回目のルール支配はまだしも,最後のセルフコントロールについては,言葉足らずのことが多々あって,最後のコマはただ作っていった資料を読むだけという,申し訳ない講座になってしまったと反省している。

言葉足らずというのは,ちょっと違っているか。つまり,行動分析学の言葉を使わないでもっと行動分析学が扱っている内容をきちんと伝えられないということなのである。セルフコントロールの定義が,「即時小強化と遅延大強化とで,後者を選択すること」というのは,行動分析学を学んだものにはよくわかるし,なぜそのような言葉を使わなければならないかも理解している。けれども,スケジュールの話も,オペラント条件づけの実験パラダイムの話も十分にしないままに,こうした表現を使うのは,受け手を無視した自分勝手なやり方である。話しはじめてはみたものの,受講生の方々の反応などからそれに気づいたときには時すでに遅し。

セルフコントロールでのもうひとつのヒントである,行動のレパートリーが乏しいのである。セルフコントロールという概念を伝える行動のレパートリーが少ないのである。と言うよりも,行動分析学の枠組みでそれ以外の伝え方を知らなかったことに,今更ながらに気づいたのである。

このような公開講座に限らず,受講生とのやりとり,受講生からいただくものがあることは,話す側の最大の好子(正の強化子)である。私が頂戴したたくさんの強化子,そしてヒントを今後に役立てることができればと思う。この場を借りて,あらためてお礼を申し上げたい。

2007年12月4日火曜日

行動療法学会に参加しました

臨床心理士の資格を取得してから,日本行動療法学会に入会したものの,年次大会への参加は去年に続いて今年でようやく2回目。私が現在本拠としている行動分析学会とずいぶん雰囲気が違っているのがおもしろいと言えばおもしろい。当然基礎系の人がいないこともあって,学会に参加しても知っている人はほんの一握り。そして,なぜか若い人を含めてきちんとスーツを着ている参加者が多いのも際だつ違いの一つである。良くも悪くも行動分析学会はTシャツにジーパンという出で立ちの人が少なくなく,ごくカジュアルな雰囲気なのだが,こちらはもうすこしきちんとしているというか畏まっているというか・・・。

気にかかったことがいくつか。まず,研究発表に,○○性と●○傾向の関係についてという形でまとめられるものが目立ったこと。要は質問紙を複数配ってそこで得られた数値から両者の特性の関係を,因果的に捉えようとするものである。これが現在多く行われている研究法のひとつであることは認めるのだが,行動療法学会でそれが目立ってしまうのはちと寂しい。いきおい,私が聞きたいと思う発表の数はごく少数にとどまってしまうのはありがたいことなのかどうなのか・・・。

もうひとつは,そうした質問紙での研究がメインだからなのだろうが,言葉の使い方がとても雑である。たとえば般化という言葉。おそらく多くの般化は反応般化でなく刺激般化なのだが,そのオリジナルの条件刺激または弁別刺激が何かを明確にしないまま何となく2つの事態が似通っているように見えると般化と呼んでしまっていたりする。参加したワークショップで不安階層表の話が出ていたが,ここではパヴロフ型とオペラントと混同したまま議論が進んで,何がターゲット行動であるのかさえ明確になっていない。「何となく行動療法」,「なんちゃって行動療法」と呼びたいような印象である。ちょっと意地悪な言い方をすれば,認知行動療法は,もともと「なんちゃって行動療法」なのだろうけれど。

もちろん勉強になったこともたくさんあった。上述の言葉が曖昧に使われたまま(極端な例は,操作的定義と言いながら,全くその定義に「操作」が含まれていなかったり)であることに批判するからには,私自身ももう一度その言葉の定義を明確にしなければならない。不安階層表について,これまであまり考えたことがなかったのだが,これについては3つのタイプに分かれることに気づいて,論文にまとめてみようかと思っているところ。

また,従来からブログを読ませていただいている久野能弘のワークショップでは,様々な領域での行動療法の展開,とりわけ学校の先生方を対象としたワークショップの話はとても興味深く,久野先生のお若い頃の活動の様子のビデオというおまけまでついていた。

マンイドフルネスの熊野先生のワークショップでもすぐ使えそうな,簡単なワークを教えていただいた。ただその一方で,熊野先生でさえ,学習理論の基礎的な用語を混乱して使っていたことに驚いたり(三項分析という言葉はいったい誰の造語なんだ?),表面的な類似性からACTの話を仏教とつなげて議論したりというのは私にはどうしてもなじめない。

全体を通して,結局行動療法の基礎が行動分析学にあること,認知という言葉を頭につけて行動療法や行動分析学への間口を広げてくれている現状はやがてきちんと行動分析学に立ち返るためのステップとなってくれるのではという楽観的な見通しを得ることができたのが一番の収穫だったのかもしれない。

2007年11月4日日曜日

悲しい性



きのうきょうとお出かけ日和。きのうは仕事だったのだけれど,きょうはお昼前から六甲山にお出かけ。神戸に来る前に住んでいた大阪も嫌いではなかったけれど,事ある毎に20年間住んでいた東京に帰りたいと思っていた。けれども神戸に住んで1年半余り,東京に帰りたいと思うことはなくなってしまった。逆に学会などで東京に出かけると早く神戸に戻りたいと思うまでになってしまった。

神戸の沢山ある魅力の一つは山と海。日本三大夜景のひとつの六甲山からの眺めは,昼間に見てもすばらしい。眺めながらふと思い出したことがあった。ああ,人間というものは,欲深いものなのだ,あるいは悲しい性を持つものなのだと感じたこと。

つい先日のこと,ある学生と話していたら,彼女が住んでいるのは明石大橋が間近に望めるとあるマンションの22階。さぞやかしすばらしい眺めを毎日毎夜楽しんでいるのだろうとうらやましがったところ,彼女は一言,「飽きました」。悲しいかな,おそらく100人が見れば100人が感嘆するであろう眺めをもはや彼女は当初ほどには楽しめないとは・・・。急いで書き加えなければならないのは,これが彼女個人の問題ではなく人間一般の問題であること。つまり,パヴロフ型条件づけの馴化かオペラント条件づけの飽和化のいずれかは判然としないが,同じ刺激を繰り返し経験すると,その刺激が持っている反応(パヴロフ型で言うところの定位反応)を引き起こす力やその他の反応を強化する力(オペラントで言うところの強化力)は弱くなっていってしまうのである。本当かどうかは知らないが,○○は三日見れば・・・という常套句はこうした現象の日常例と考えることもできるのである。それではどうすればよいか。遮断化すればよいという至極単純な答えが返って来るであろう。

神戸に住んでいても,ときどき山に登り,そのすばらしい眺めを楽しむのが分相応という以前に,人間の性を考慮したやり方かと思ったことであった。

11月に入ってから,このブログにもカウンターをつけてみた。読んでくれている人が若干名はいることがわかってちょっと嬉しい。

お断り: ここに示した画像は,ビバ! 夜景というサイトのものを無断使用しています。きょう出かけたのは,まさしくこの場所でした。問題があれば,削除いたします。

2007年10月22日月曜日

子どもの心をしずめる24の方法

新聞各紙の日曜版は図書案内にページを割いている。きょうの図書欄にはそれほどめぼしいものがなかったものの,3点面白そうな広告と記事を見つけた。

ひとつは,北大路の心理学と科学についてのもの。臨床心理学における科学と疑似科学,そしてロールシャッハテストは間違っている: 科学からの異議他2冊。いずれも,臨床場面での実践家としての活動と一般化を問題とし,科学としての信頼性や妥当性を重視する科学者としての活動とのギャップを扱っていると考えればよいのだろう。私が授業で扱う日常知(経験知と呼んでもよいのだが)と,科学的にわかっていくこととのギャップは時にいかんともしがたい。けれども,少なくとも臨床場面で活動(しようと)する人たちが,誰かの主張を無批判に受け入れてしまうことだけは避けたい。これら2冊は何かを教えてもらうのでなく,自分で論理的に考えて,咀嚼する練習にもなるかもしれない。

日常知と科学知とは,理想的にはやがて重なっていくと考えたいが,この稿のタイトルに掲げた本はそんな好例のひとつかもしれない。子どもの心をしずめる24の方法もきょうの朝日で記事として紹介されている。目次だけを挙げてみると,

自分の気持ちをしずめる方法の取り入れ方
  お手本を見せましょう/ いくつかのステップにわけて教えましょう/ 取り入れ方のヒント/ 子どもに合った方法の選び方/ いつでもどこでも使える方法と感情をためこまないために日課として行なう方法
気持ちをしずめる24の方法
  からだを使う/ 聞く・話す/ 見る/ ものをつくる/ 自分をなぐさめる/ ユーモラスな方法

この本の著者Elizabeth Craryは,小学校の教師を経て,親や教師,子どもを支援する活動を25年以上続けている。M.S.とあるから,おそらく修士修了した後に現場で経験を重ねてきた人なのだろう(M.S.はこれまたたぶんだけれど,Master of Scienceのはず,ちなみにイギリスだとMSc)。まだ実際に本を手にしたわけではないが,「気持ち」のコントロールが,「気持ち」に集中するのでなく,上記のような行動によって行われていると考えられているように見える。

行動分析学が誤解されるひとつに,行動だけを見て「気持ちや感情」を考えていないというものがあるが,ここで紹介されている内容は,行動分析的な考えとおそらくうまく合致しているように見える。うまく合致している考えというのは,「気持ちや感情」は状態であり,その状態は私たちを取り巻く環境や,自分自身が行った行動とその結果によってもたらされるというものである。社会的スキルの獲得の重要性を思う。

さて,もう1冊は新書。松本聡子という若い人が,文春新書に書いた
あなたは人にどう見られているか。東京工業大学で大人気の授業をまとめたものらしく,面白そうに見える。社会心理学の知見をベースに書かれているとあるから,タイトルは一見怪しげだが内容とすればきちんとしたものなのだろう。おそらく,人からどのように見られているのかは,他人をどのように見るのかと同じくらい,社会的な動物である人間にとっては重要な関心事であろう。一般的に人間関係をうまく築くことがうまくないと言われがちな「今どきの若者」たちに取ってみると,そのような内容の講義は願ったり叶ったりなのだろう。これを出発点として,ただそこで呈示されるスキルだけでなく,研究の方法論を理解するところへ発展させていけば,さらに,研究内容をそのような身近な直接的なテーマから人間の行動に関するより基礎的なテーマへと発展させれば言うことはない。

なお,ここでの書籍のリンクはできるだけ,本やタウン・ほーほー堂のものを使っている。親和の生協と提携していて大学で注文したものを受け取れて便利だから。

2007年10月5日金曜日

職業選択の自由の不自由または自由意志


きょうは出張。いつ頃から始まったのか,高等学校での模擬授業や進路相談。親和にも結構頻繁に業者主催のセミナーや高等学校からの模擬授業の依頼がくる。学科の教員で分担はするのだが,高校生と話すのも私はそれほど嫌いでない。  

きょうは進路相談だった。高校1年生,2年生がさまざまな大学,短大,専門学校から様々な学科,専門についての説明を受けるというもの。多いところには10数名固まっていたようだが,心理には残念ながら1年生が2人,2年生が4人とこぢんまりした集まりだった。

そもそもこのような説明会が必要な理由は何なのだろうと考えてみたことがある。職業選択の自由は憲法第22条で定められている。けれども,第24条の両性の合意にのみ基づくと規定した婚姻と同様に,家庭の事情,親の干渉などなどの理由によって,絵に描いた餅であるように見えなくもない。もちろん,現実でなく理想を掲げたものとして,つまり国の方向性を示すものが憲法であれば,それで一向に不都合はない。

今の高校生が,そうした親の意図や事情を離れて,全く自由に決めてよいと言われて,さてどの程度の高校生が「それでは」と明確な希望を自らの意志によって決められるのだろう。大学生でさえ,自分が何をしたいのかわからない学生が少なくないというのに。

行動分析学は,話が大仰になってしまうが,いわゆる「自由意志」を仮定しない。つまり決定論に立っている。スキナー(1971)の自由と尊厳を越えて(上の画像はクリックすると拡大されます)は,それ故に物議を醸した。自由意志を認めたいという「気持ち」は十分に理解できる。様々なものから自由でありたいと思うからこそ,人には自由意志があると信じたい。逆に言えば自由でないからこそ自由であると信じたい。白石冬美曰く「たがの中の幸せ」。とりわけ創造論を信じたい立場からは人と人以外の動物は峻別されねばならず,故にスキナーは許し難いのだろう。

職業に限ったことではないが,非常にたくさんの選択肢が存在する。すべての職業を知悉して,その中から自分の適性,志向,将来性,何を得たいかなどといった要因を考慮して,自由意志によって選択するなどということは到底出来ない相談である。今ここにあるもの,その中で自分が知っているもの,自分の能力やその職業に就くために必要な労力,お金などなど,多くの制約によってごく少数の選択肢に限られる。その中から選ぶのが「自由意志」であると言えばそうなのだろうが。

今の高校生や大学生が感じている戸惑いは自由度が高い,つまり選択肢が多すぎることが一因のように思える。あらかじめ親の仕事を継ぐと決められていれば,あるいは,選択肢としてAかBしかないようにな状況であれば,特別悩む必要もない。選択肢が多いからこそ,自由に選択してよいからこそ感じる不自由さ,そのような逆説的な状況にあることが,きょうのようなセミナーを必要とする理由のひとつなのではと思うのである。

きょうのオーディエンスは小さかったが,1年生も2年生もそれぞれそれなりに楽しんでもらえていたら嬉しいのだけれど。そして,心理学を自分の選択肢の一つとして具体的に考えてくれればいいのだけれど。

Skinner (1971). Beyond Freedom and Dignity. Indianapolis: Hackett Pub.