共通教育の心理学を休講にして出かけた,兵庫県内のA高校,そして松蔭の授業の後で出かけた京都府内のF高校と2日続けて,高校2年生を対象とした模擬授業に出かけた。
いずれの高校での授業も,とても充実した時間になった。A高校では20名前後が2クラス,F高校でも25名程度の参加者だったが,50分程度の時間に私語も居眠りもなく,とてもまじめに,また積極的に反応しつつ聞いてもらえた。
話の内容はいつもと変わらない。心理学という学問が,非常に広い領域やアプローチを持つものであること,一般的に考えられているかもしれない心理学のイメージとは異なる側面を多く持つこと,日常的なあちこちに心理学の研究テーマが隠れていること,そして,心理学がとてもおもしろい学問であること。付け加えて,心理学を学んで大学を卒業した後のイメージである。
大学にもよりけりだろうが,親和でもほとんどの学生は心理学を学んで一般企業に就職する。どこまでが心理学を生かした仕事をしているかは残念ながらわからないが,そこで学んだことを役立てられるかどうかは,おそらくは当人次第ではないかと思う。
これは高校の先生方から時折耳にする話だが,大学で学ぶことはそのままその学問を生かした仕事をしなければならないと考えている高校生が少なからずいるとのこと。昔のような,教養としての学問をここで引っ張り出してくるほどずれているわけではないが,それでもそうした考えが,ある種専門学校のような学びと仕事とがそのままの形で繋がっている形態のイメージに基づいており,大学での学びを正しく理解していないためであると言わざるを得ない。
資格偏重は,現代の学生の社会で戦うための手段として認めてあげなければならないのだろうが,現在国家資格をひとつも持たない心理学は,そうすると,全く学ぶに値しない学問になってしまいかねない。そうではなく,何かがわかること,何かを知ることという,哲学,科学の原点に戻って,心理学に限らない多くの学問の楽しさを,このような高校での模擬授業で伝えることができればと思うのである。
2008年9月16日火曜日
フラストレーション
卒業や進級がかかっている年度で取得単位が不足しているとき,所定の手続きによって再試験を受験できる。これはどこの大学でも実施されており,実を言えば私も卒業をかけて再試験を受験したことがある。
話せば長い事ながら,私が大学と大学院を過ごした東京のある大学では,博士課程の入学試験に,文学研究科ということもあるのだろうが,第二外国語が課されていた。要は,英語,ドイツ語,フランス語,ロシア語,中国語などから2つを選択するわけである。3年生の時に卒論では動物実験をすると決めてから,大学院に進学しようと考えていた私は,3年生の時に選択する専門外国語をドイツ語にした。英語は日常的に読まなければならない状況にあったから,そうではないドイツ語(1年と2年の2年間はそれぞれ週に4コマずつあった)を継続しておこうと考えたためである。これらは特別な話ではない。
大学の教員は,教える,研究するという,一般にイメージされる仕事(好きでやっているから遊びと言えなくもないかもしれない)の外に,学内外での教務的な仕事がある。教室運営,学科運営などなど,最近は大学の宣伝など募集活動なども含めて,いわゆる「雑務」と呼びたい(けれどもとても大切な)仕事は少なくない。たまたま3年の専門ドイツ語を担当された先生が,前期終了後に学内の役職に就くとかで,後期から交代になった。その先生は1年間だけという約束で担当されたので,4年生の後期にはまた別の先生が担当となった。
問題は,私の動物実験である。オペラントの実験は毎日同じ時間に始めることが原則である。その原則を守ろうとすると,勢い出席できにくい科目が出てきてしまう。私は,考え違いも甚だしいのだが,卒論の実験をしていれば出席なんかどうでもよいと考えていて,4年後期のドイツ語に結局ほとんど出席できず,従って,試験もできず,見事に単位を取得できなかったのである。今でも記憶に鮮明な,山田先生にお話しに伺ったとき(卒論で実験してるんだから何とかしろという気持ちである),正当に評価するしかないから単位は認められない。卒業できなければ死ぬというなら,ここから飛び降りると交渉した過去の強者には,飛び降りてもらって構わないと話したという逸話も交えながら,それでも,再試験だけは受けられるようにしてやると温情をかけてくださった。温情というのは,再試験を受験するにも資格が必要なのである。たとえば40点以上の評価であるとかなんとか。
大学院修士の試験(2月下旬の1次,3月初旬の2次)を無事合格しながら,卒業をかけた試験を3月12日に受験しなければならなかった。出題範囲が何ページあったか記憶にないが,今でもはっきり覚えているのは,ひとりひとりに厳封された試験問題が配付され,隣に座った同じくドイツ語の再試験を受ける女の子と,開始の合図の直後に問題1が,その出題範囲の最初のパラグラフであることを確認して,思わず顔を見合わせてほほえんだことである。そのようにして,私は無事に卒業し,大学院に進み,そして中略で現在に至るわけである。
さてしかし,私がこれまでにドイツ語に限らず,外国語をあれほど集中的に勉強した時期というのは,その大学院の1次試験を終えて,ドイツ語の再試験を受験するまでの1ヶ月足らずを措いて外にない。博士課程のときにも,結構勉強して,最終的に瞬間最大単語力は3,000を越えていたと思うが(受験直後から,どこから消えていくのか,その単語力は今や枯れ木にわずかに残る病葉のごとしである),それでもそのときほど集中して勉強してはいなかった。
さて,時は流れて,大学の授業を担当するようになって,そうした再試験を受験する側でなく出題・評価する側に回ってしまった。そして,今回どうしても単位を認定できない場面に巡り会ってしまった。受験するときは受験するときで,とてもフラストレイティブな状況に置かれたが,それでも,今思えば,出題する側よりはましである。なせなら,きちんと勉強すれば結果は自ずと見えるからである。つまり,自分で結果をコントロール可能な状況なのであるから。一方,出題する側に立つと,出題して,あとは学生の努力を待つしかない。そして今回のように,どうしても認定できないような状況に至ってしまうと,やるせない気持ちをどうしようもない。
最近は,入学は比較的容易で,卒業が難しくなるという,文字通りアメリカ型の大学のあり方へとシフトしているが,これからこのような例をいくつか経験するようになるのだろうか。それでも,人間を含めて動物は自分の失敗からも学習するはずである。今回の躓きを教訓としてもらえれば,少しは気も楽になるのだが・・・。
話せば長い事ながら,私が大学と大学院を過ごした東京のある大学では,博士課程の入学試験に,文学研究科ということもあるのだろうが,第二外国語が課されていた。要は,英語,ドイツ語,フランス語,ロシア語,中国語などから2つを選択するわけである。3年生の時に卒論では動物実験をすると決めてから,大学院に進学しようと考えていた私は,3年生の時に選択する専門外国語をドイツ語にした。英語は日常的に読まなければならない状況にあったから,そうではないドイツ語(1年と2年の2年間はそれぞれ週に4コマずつあった)を継続しておこうと考えたためである。これらは特別な話ではない。
大学の教員は,教える,研究するという,一般にイメージされる仕事(好きでやっているから遊びと言えなくもないかもしれない)の外に,学内外での教務的な仕事がある。教室運営,学科運営などなど,最近は大学の宣伝など募集活動なども含めて,いわゆる「雑務」と呼びたい(けれどもとても大切な)仕事は少なくない。たまたま3年の専門ドイツ語を担当された先生が,前期終了後に学内の役職に就くとかで,後期から交代になった。その先生は1年間だけという約束で担当されたので,4年生の後期にはまた別の先生が担当となった。
問題は,私の動物実験である。オペラントの実験は毎日同じ時間に始めることが原則である。その原則を守ろうとすると,勢い出席できにくい科目が出てきてしまう。私は,考え違いも甚だしいのだが,卒論の実験をしていれば出席なんかどうでもよいと考えていて,4年後期のドイツ語に結局ほとんど出席できず,従って,試験もできず,見事に単位を取得できなかったのである。今でも記憶に鮮明な,山田先生にお話しに伺ったとき(卒論で実験してるんだから何とかしろという気持ちである),正当に評価するしかないから単位は認められない。卒業できなければ死ぬというなら,ここから飛び降りると交渉した過去の強者には,飛び降りてもらって構わないと話したという逸話も交えながら,それでも,再試験だけは受けられるようにしてやると温情をかけてくださった。温情というのは,再試験を受験するにも資格が必要なのである。たとえば40点以上の評価であるとかなんとか。
大学院修士の試験(2月下旬の1次,3月初旬の2次)を無事合格しながら,卒業をかけた試験を3月12日に受験しなければならなかった。出題範囲が何ページあったか記憶にないが,今でもはっきり覚えているのは,ひとりひとりに厳封された試験問題が配付され,隣に座った同じくドイツ語の再試験を受ける女の子と,開始の合図の直後に問題1が,その出題範囲の最初のパラグラフであることを確認して,思わず顔を見合わせてほほえんだことである。そのようにして,私は無事に卒業し,大学院に進み,そして中略で現在に至るわけである。
さてしかし,私がこれまでにドイツ語に限らず,外国語をあれほど集中的に勉強した時期というのは,その大学院の1次試験を終えて,ドイツ語の再試験を受験するまでの1ヶ月足らずを措いて外にない。博士課程のときにも,結構勉強して,最終的に瞬間最大単語力は3,000を越えていたと思うが(受験直後から,どこから消えていくのか,その単語力は今や枯れ木にわずかに残る病葉のごとしである),それでもそのときほど集中して勉強してはいなかった。
さて,時は流れて,大学の授業を担当するようになって,そうした再試験を受験する側でなく出題・評価する側に回ってしまった。そして,今回どうしても単位を認定できない場面に巡り会ってしまった。受験するときは受験するときで,とてもフラストレイティブな状況に置かれたが,それでも,今思えば,出題する側よりはましである。なせなら,きちんと勉強すれば結果は自ずと見えるからである。つまり,自分で結果をコントロール可能な状況なのであるから。一方,出題する側に立つと,出題して,あとは学生の努力を待つしかない。そして今回のように,どうしても認定できないような状況に至ってしまうと,やるせない気持ちをどうしようもない。
最近は,入学は比較的容易で,卒業が難しくなるという,文字通りアメリカ型の大学のあり方へとシフトしているが,これからこのような例をいくつか経験するようになるのだろうか。それでも,人間を含めて動物は自分の失敗からも学習するはずである。今回の躓きを教訓としてもらえれば,少しは気も楽になるのだが・・・。
2008年7月13日日曜日
2つの授業参観: 知っていること,できること
親和でもFD (Faculty Development: 大学教員の資質開発,とりわけ授業内容や方法の改善・向上を目指す) の取り組みが行われている。昨年度より始まったのが,教員相互の授業参観である。今回は3つの授業を(うち一つは所用のために最初の30分だけ)参観した。
驚くことも沢山あったのだけれど,私の授業に比べると,3つのどの授業もより多くの学生の興味・関心を引きつける力の強いものだった。だからといって,私の授業を自ら卑下しているわけでも貶めているわけでもない。選んだ授業の3つがいずれもたまたま,実学的な要素の強いもので,そこで学ぶことが自分の近い将来の仕事に直結する,理論を伴いながらも具体的に何をどうするかという内容のものだったことが,その最も大きな理由だったのではないかと考えるからである。
たとえば,幼児教育の教員の話し方は,私が知っている限り,いわゆる幼稚園や保育園の先生方が子どもたちを相手にするときのしゃべり方とほとんど変わらない。実は最初耳にしたときには,言葉を選ばずに書いてしまえば,目が点になる思いだった。けれども,すぐに気づいたのだが,そうした話し方は学生が近い将来にこどもたちを実際に相手に話すときのとてもとてもよいモデルとして機能しているのである。一緒に歌って,手遊びをして,といった様子は,私がこれまでに全く大学という場所で見聞きしたことのないものだった。
幼児教育の授業の例は,ほんの一例だが,そうした授業で私が最も強く感じたことは,当たり前のことなのだが,自分ができることというのは,自分が知っていることから大きく逸脱しないということである。私が過ごしてきた大学,大学院の時間で巡り会った教員が一体全部で何人いたのかわからないが,たぶん私が現在行っている授業の形態は,そうした経験をもとにして私なりに変化させて工夫したものにすぎない。昨年参観した心理学関連の授業は,私がそれまでに知っていた範疇に十分収まるもので,今回のような驚きは些かも感じることがなかった。
今回の参観した授業の中から私が実際にうまく取り入れられる方法がどれほどあるかはわからないが,少なくとも,自分がこれまでに知っていた枠を壊してしまってもよいのだということを感じられただけでも,十分すぎるほどの収穫だったと強く思う。
もうひとつ付け加えれば,私の知らなかったこと,また誤解していたことが,内容としてあつかわれており,勉強になった,そして,わかっているつもりできちんとわかっていないことが,当たり前だけれど,沢山あるのだと,これまた痛感した。
驚くことも沢山あったのだけれど,私の授業に比べると,3つのどの授業もより多くの学生の興味・関心を引きつける力の強いものだった。だからといって,私の授業を自ら卑下しているわけでも貶めているわけでもない。選んだ授業の3つがいずれもたまたま,実学的な要素の強いもので,そこで学ぶことが自分の近い将来の仕事に直結する,理論を伴いながらも具体的に何をどうするかという内容のものだったことが,その最も大きな理由だったのではないかと考えるからである。
たとえば,幼児教育の教員の話し方は,私が知っている限り,いわゆる幼稚園や保育園の先生方が子どもたちを相手にするときのしゃべり方とほとんど変わらない。実は最初耳にしたときには,言葉を選ばずに書いてしまえば,目が点になる思いだった。けれども,すぐに気づいたのだが,そうした話し方は学生が近い将来にこどもたちを実際に相手に話すときのとてもとてもよいモデルとして機能しているのである。一緒に歌って,手遊びをして,といった様子は,私がこれまでに全く大学という場所で見聞きしたことのないものだった。
幼児教育の授業の例は,ほんの一例だが,そうした授業で私が最も強く感じたことは,当たり前のことなのだが,自分ができることというのは,自分が知っていることから大きく逸脱しないということである。私が過ごしてきた大学,大学院の時間で巡り会った教員が一体全部で何人いたのかわからないが,たぶん私が現在行っている授業の形態は,そうした経験をもとにして私なりに変化させて工夫したものにすぎない。昨年参観した心理学関連の授業は,私がそれまでに知っていた範疇に十分収まるもので,今回のような驚きは些かも感じることがなかった。
今回の参観した授業の中から私が実際にうまく取り入れられる方法がどれほどあるかはわからないが,少なくとも,自分がこれまでに知っていた枠を壊してしまってもよいのだということを感じられただけでも,十分すぎるほどの収穫だったと強く思う。
もうひとつ付け加えれば,私の知らなかったこと,また誤解していたことが,内容としてあつかわれており,勉強になった,そして,わかっているつもりできちんとわかっていないことが,当たり前だけれど,沢山あるのだと,これまた痛感した。
2008年5月2日金曜日
オンとオフ
世の中はゴールデンウィーク真っ只中。常々思うことの一つに,こんなことがある。
日本の町並みはばらばら,でもそこで動いている人たちの思いや活動は似通っている。欧米の一部の町並みは統一されている,でもそこで動いている人たちの思いや活動はばらばら。
周囲が何をしているかは常に自分の行動を律するための規範であり続けている。行動分析学で言うところのルール。あるいは,実際に働いている阻止の随伴性,最後に働いている好子・嫌子はもちろん社会的なもの。自己主張することを強化する社会・文化と,何となく周囲がやっていることからはみ出ることを弱化する(正しい言い方ではないけれど,受動的な回避行動を強化する)社会・文化との違いがそのエッセンス。
だからといって,欧米の社会や文化をよりよいと結論づけるまでの確信は無いけれど,折に触れてそんなことを感じてしまう日本の社会・文化にある生きにくさを痛感する人は少なくないはずなのだけれど・・・。
きょうの2回生のゼミは出席率が低かった。私が学生だったとしたら(但し,今の時代の学生だとしたらちょっと違っているかもしれないが),今週の月,木,金の3日は必ずや大学には出席していなかっただろう。授業以外に大切なことは山ほどある。時間が許すからこそできることもある。カレンダー通りに活動しなければならない窮屈さを,それでも周囲がそうしているからという理由で否定してしまうのは,大学に4年間しか在籍しないほとんどの学生にはとてもとてももったいない気がするのだけれど・・・。
こんな書き方をすると,どこかからお叱りを受けるのではないかしらという思い(経験から学習した行動の随伴性である)に抗っている自分をちょっとだけ誉めてやりたい。
日本の町並みはばらばら,でもそこで動いている人たちの思いや活動は似通っている。欧米の一部の町並みは統一されている,でもそこで動いている人たちの思いや活動はばらばら。
周囲が何をしているかは常に自分の行動を律するための規範であり続けている。行動分析学で言うところのルール。あるいは,実際に働いている阻止の随伴性,最後に働いている好子・嫌子はもちろん社会的なもの。自己主張することを強化する社会・文化と,何となく周囲がやっていることからはみ出ることを弱化する(正しい言い方ではないけれど,受動的な回避行動を強化する)社会・文化との違いがそのエッセンス。
だからといって,欧米の社会や文化をよりよいと結論づけるまでの確信は無いけれど,折に触れてそんなことを感じてしまう日本の社会・文化にある生きにくさを痛感する人は少なくないはずなのだけれど・・・。
きょうの2回生のゼミは出席率が低かった。私が学生だったとしたら(但し,今の時代の学生だとしたらちょっと違っているかもしれないが),今週の月,木,金の3日は必ずや大学には出席していなかっただろう。授業以外に大切なことは山ほどある。時間が許すからこそできることもある。カレンダー通りに活動しなければならない窮屈さを,それでも周囲がそうしているからという理由で否定してしまうのは,大学に4年間しか在籍しないほとんどの学生にはとてもとてももったいない気がするのだけれど・・・。
こんな書き方をすると,どこかからお叱りを受けるのではないかしらという思い(経験から学習した行動の随伴性である)に抗っている自分をちょっとだけ誉めてやりたい。
2008年4月8日火曜日
授業開始
Boy, have I got this guy conditioned! Every time I press the bar he drops in a piece of food. This cartoon from the Columbia Jester was reproduced by Skinner in 1961.
大学院は先週末から,学部は昨日(月曜日)から授業開始だったが,たまたま私の研究日が月曜日,土曜日は授業がないために,私にとっての新年度は今日が始まり。
大学院文学研究科心理臨床専攻には18名の臨床家の卵を迎えた。私の率直な思いからすれば,臨床家でなく,研究者の卵と書きたいところだが,親和の大学院は一種指定校だから,私たちが準備しているのは万全とは言えないまでもそのようなカリキュラムであり,ここに集う人が目指すのはあくまでも臨床家であるはず。まずはしっかりと基礎(心理学の基礎がどこにあるかが人によって見解が異なるのは善し悪し)を固めて,近い将来にしっかりとした臨床家に成長してくれればと思う。
これはいつも口にすることだが,日本の「教育」ということばと,欧米のeducation,erziehenとの違いは非常に重要criticalであると思う。私たちができることは,彼らが成長していくことの手助けに過ぎない。それは臨床場面でクライエントと対峙するときよりもはるかに指示的(いずれも支持的であることはいうまでもない)であるはずだが,それでも,私たちに出来ることは学生ひとりひとりが成長していく手助けに過ぎない(はず)。まさか大学院にきて,教えてくれたり,助けてくれたりするまで何もしないで待っている院生はいないだろうが,同時に私たちにできることの限界を常に感じていなければならないと思う。
さて,そのようにひとりひとりの能力を引き出すのには,あるいは何かの悩みを解決するのには,穴や井戸の奥深くに分け入っていかなければならないのだろうか,それとも,その人の周囲に何らかのセッティングをしてあげるだけでよいのだろうか。
ここに掲げたマンガが何を意味しているのかについては(英語では彼らの会話が書かれているけれど),考えてみて欲しい。
2008年4月4日金曜日
神戸の女子大
今年から新たに,神戸市にある女子大がオープンキャンパスで共同企画を始めることになった。まだ計画段階なので詳細については決まり次第ここでもアップしたいが,何より神戸市内にある女子大が5つだけだということに驚いた。考えてみれば,神戸の名前を冠する(もともとは神戸市内にあった)神戸女学院をはじめとして阪神間には,神戸市内以外にもいくつか女子大があるし,すでに共学化した大学もあるのだが,現在「神戸市内にある女子大学」は,神戸女子大,神戸松蔭女子学院,神戸海星女子学院,甲南女子大,そして神戸親和女子大の5つだけのようである。
これはこれらの五女子大学に限らずだが,「神戸市内にある女子大学」という一言で括れないそれぞれの個性があることを強調したい。実は私も着任する前は,神戸の女子大というと,なんとなくあんな感じ,こんな感じというイメージを持っていたのだけれど,親和はもちろん,非常勤で関わる松蔭も,他の3大学もそれぞれにユニークであることに気づくのに時間はかからない。5つの大学を全部まわってもらえなくても,いくつか回ってみて自分にぴったりくる雰囲気,大きさ,学生の印象などを見つけてもらえればと思う。
この夏,初めてとなるオープンキャンパスの共同企画について,折に触れてここでも紹介していきたい。
これはこれらの五女子大学に限らずだが,「神戸市内にある女子大学」という一言で括れないそれぞれの個性があることを強調したい。実は私も着任する前は,神戸の女子大というと,なんとなくあんな感じ,こんな感じというイメージを持っていたのだけれど,親和はもちろん,非常勤で関わる松蔭も,他の3大学もそれぞれにユニークであることに気づくのに時間はかからない。5つの大学を全部まわってもらえなくても,いくつか回ってみて自分にぴったりくる雰囲気,大きさ,学生の印象などを見つけてもらえればと思う。
この夏,初めてとなるオープンキャンパスの共同企画について,折に触れてここでも紹介していきたい。
2008年4月1日火曜日
春
個人的には日本も大学のみ9月入学にできないかと思う一方で,日本の春の卒業式と入学式は本当にいい。尤も,ここで言う日本というのは地域限定で,北の国ではまた違うけれど・・・。
きょうは幸い好天にも恵まれて,通学部(学部)で450名の新入生を迎えることが出来た。大学院と通信教育部などを合わせると,全部で620余名になる。さらに,教職員も20名以上の新しい仲間を迎えて,親和も新しい出発の日となった。
心理学科も定員を1名上回る61名の新入生とひとりの新任の先生をお迎えした。現代女性のための心理学コース,心理学がわかる教員コース,臨床心理士コースという3本の柱には変化がないが,この柱で走り始めて2年目の今年,さらによい学科に育てたいと考えている。
きょうは幸い好天にも恵まれて,通学部(学部)で450名の新入生を迎えることが出来た。大学院と通信教育部などを合わせると,全部で620余名になる。さらに,教職員も20名以上の新しい仲間を迎えて,親和も新しい出発の日となった。
心理学科も定員を1名上回る61名の新入生とひとりの新任の先生をお迎えした。現代女性のための心理学コース,心理学がわかる教員コース,臨床心理士コースという3本の柱には変化がないが,この柱で走り始めて2年目の今年,さらによい学科に育てたいと考えている。
2008年3月22日土曜日
春: おめでとう
昨日までの嵐のような雨と風が嘘のような,暖かな学位記授与式。親和に来て初めての謝恩会。いろいろと思うこともあるけれど,結局最後に言えるのはおめでとうの一言に尽きるのだろう。
同時にいつも思うのは,大学生活の真っ只中にいると,なかなか気づかないのだけれど,大学院などに進学しない学生にとっては,小学校以来続いてきた16年間の勉学の生活からも卒業するということである。それぞれの節目に卒業式を祝う以上に,これから先は,高等教育まで受けた一人の社会人としての生活をしなければならない,違う言い方をすれば,受け手から(大学でその準備をしているはずだが),作り手や送り手の立場に変わると言うことである。自分自身が社会を作っていく一人となるということである。
ともあれ,何より心身ともに健康で,よいことがあるようにとつくづく思う。
同時にいつも思うのは,大学生活の真っ只中にいると,なかなか気づかないのだけれど,大学院などに進学しない学生にとっては,小学校以来続いてきた16年間の勉学の生活からも卒業するということである。それぞれの節目に卒業式を祝う以上に,これから先は,高等教育まで受けた一人の社会人としての生活をしなければならない,違う言い方をすれば,受け手から(大学でその準備をしているはずだが),作り手や送り手の立場に変わると言うことである。自分自身が社会を作っていく一人となるということである。
ともあれ,何より心身ともに健康で,よいことがあるようにとつくづく思う。
2008年3月18日火曜日
一足お先に
ここ数日すっかり春めいてきた。卒業式らしき光景も何度もみかけた。親和の学位記授与式は22日,そして入学式は4月1日。きのうは,入学式に先駆けてAO方式での入学予定者に集まってもらって楽しい時間を過ごした。
AO方式の入試については(もちろんAO方式に限らないが),賛否両論ある。タイミング良く掲載されたきのう(3月17日付)の朝日新聞では,学力試験を課さないことによる問題点の指摘と慶應義塾大学の藤沢キャンパスでの成功例とを挙げていた。確かに,学力試験を回避するためというごくごく消極的な理由だけで利用するのであれば,個人的にはAO方式は必要ない。一方で,学力試験だけによる選抜にも,学力さえあれば適性も志向性も問題にしないで,ただいわゆる偏差値の高い学部,大学を目指したがために,不全感,不適応による中退といった望ましくない結果を招いてしまうこともある。おそらくは何でもそうなのだが,使い方を間違えてしまえば結果は望ましくないものになってしまうのだろう。
幸いなことに親和でもAO方式で入学した学生の多くが,学生生活そのものを楽しみ,また私たちが望む他の学生を牽引する役割を果たしてくれてきた。考えてみるまでもなく,一般入試のみで入学する学生は,入試以外で大学を訪れることも,大学生活を体験することも,在学生の雰囲気を知ることも,ましてや教員と時間をかけて話すことも,まず望むことは難しい。翻って,AOであれば,親和でもそれぞれ十分な時間をかけた2度の予備面接と本面接,合格決定後の教員とのやりとり(特に児童教育学科の先生方はとても時間と手間を惜しまずにかかわっているとのこと),この日の連絡会など,他の学生に先んじて大学の様子に馴染むことができる。つまり,一足お先に入学しているようなものと言えばいいのだろうか。
5月恒例の親和行事をはじめ,様々な場面で学科を主体的にリードしてくれるような存在に育って,今年のAO選抜も十分な効果を挙げたと言えるようにと期待している。
AO方式の入試については(もちろんAO方式に限らないが),賛否両論ある。タイミング良く掲載されたきのう(3月17日付)の朝日新聞では,学力試験を課さないことによる問題点の指摘と慶應義塾大学の藤沢キャンパスでの成功例とを挙げていた。確かに,学力試験を回避するためというごくごく消極的な理由だけで利用するのであれば,個人的にはAO方式は必要ない。一方で,学力試験だけによる選抜にも,学力さえあれば適性も志向性も問題にしないで,ただいわゆる偏差値の高い学部,大学を目指したがために,不全感,不適応による中退といった望ましくない結果を招いてしまうこともある。おそらくは何でもそうなのだが,使い方を間違えてしまえば結果は望ましくないものになってしまうのだろう。
幸いなことに親和でもAO方式で入学した学生の多くが,学生生活そのものを楽しみ,また私たちが望む他の学生を牽引する役割を果たしてくれてきた。考えてみるまでもなく,一般入試のみで入学する学生は,入試以外で大学を訪れることも,大学生活を体験することも,在学生の雰囲気を知ることも,ましてや教員と時間をかけて話すことも,まず望むことは難しい。翻って,AOであれば,親和でもそれぞれ十分な時間をかけた2度の予備面接と本面接,合格決定後の教員とのやりとり(特に児童教育学科の先生方はとても時間と手間を惜しまずにかかわっているとのこと),この日の連絡会など,他の学生に先んじて大学の様子に馴染むことができる。つまり,一足お先に入学しているようなものと言えばいいのだろうか。
5月恒例の親和行事をはじめ,様々な場面で学科を主体的にリードしてくれるような存在に育って,今年のAO選抜も十分な効果を挙げたと言えるようにと期待している。
2008年3月14日金曜日
おめでとうございます
最後に書いてから1ヶ月近く経過してしまいました。私自身もこのブログを開くことなく過ごしていました。アクセス数も少しは増えていたのでしょうか。
さて,きょうのタイトル,「おめでとうございます」というのは月曜日の話。親和でも先週の教授会の認定を受けて,卒業認定の発表がありました。4回生まで心理学研究法の再履修を頑張った学生が結構いたのですか(1回目の再履修は前任の先生からの引き継ぎ),無事全員が単位取得しました。ある学生(私のゼミ生ですが)は,指導教員(つまり私)と同じように,再試験を受験,無事に合格しました。試験の結果については報告を受けていなかったので,教授会で認定者リストの中に名前を見つけたときはほっとするやら,嬉しいやら・・・。
私もいつのころからか,ギリギリになるまで仕事をしないことが多くなってしまいました。明日は公開講座の最終日なのですが,つい今し方配付資料を含めて準備が一応整ったような状況です。もちろん単なる偶然に過ぎないのでしょうが,指導の教員と学生も少しの間一緒にいることで,行動傾向が似てくることでもあるのでしょうか。
何はともあれ,ご卒業おめでとうございます。学位記授与式,謝恩会,いずれも楽しみにしています。
さて,きょうのタイトル,「おめでとうございます」というのは月曜日の話。親和でも先週の教授会の認定を受けて,卒業認定の発表がありました。4回生まで心理学研究法の再履修を頑張った学生が結構いたのですか(1回目の再履修は前任の先生からの引き継ぎ),無事全員が単位取得しました。ある学生(私のゼミ生ですが)は,指導教員(つまり私)と同じように,再試験を受験,無事に合格しました。試験の結果については報告を受けていなかったので,教授会で認定者リストの中に名前を見つけたときはほっとするやら,嬉しいやら・・・。
私もいつのころからか,ギリギリになるまで仕事をしないことが多くなってしまいました。明日は公開講座の最終日なのですが,つい今し方配付資料を含めて準備が一応整ったような状況です。もちろん単なる偶然に過ぎないのでしょうが,指導の教員と学生も少しの間一緒にいることで,行動傾向が似てくることでもあるのでしょうか。
何はともあれ,ご卒業おめでとうございます。学位記授与式,謝恩会,いずれも楽しみにしています。
2008年2月16日土曜日
再履修? それとも・・・
いろいろと書きたいことが重なっているのだけれど,とりあえず急ぎの件だけ。
親和も松蔭も,成績報告が終了した。ただ,ある学生の話によれば,たまたま体調を崩していて締め切りに間に合わずにレポートを提出できなかった学生もいたとのこと。公的な場所に書くのは憚られるのだけれど,そのような正当な理由で提出できなかったがために再履修になってしまうのは理不尽と私には思える。
常々再履修することによって理解が深まるし(実際,すでに単位を取得できているのだけれど再度授業に出席したいという学生は過去にも少なからずいた),再学習は1度目の学習に比べて一般的には成績が良くなるという成績上の意味もあるが,それでも,履修上の負担は大きくなる。時間割上で他の履修したい科目を登録できなくなってしまう危険性もある。
きちんとした理由で提出できなかった学生で,今から提出希望があれば,連絡して欲しい。提出先と同じアドレスでかまわない。
評価結果についてはまた後日。
親和も松蔭も,成績報告が終了した。ただ,ある学生の話によれば,たまたま体調を崩していて締め切りに間に合わずにレポートを提出できなかった学生もいたとのこと。公的な場所に書くのは憚られるのだけれど,そのような正当な理由で提出できなかったがために再履修になってしまうのは理不尽と私には思える。
常々再履修することによって理解が深まるし(実際,すでに単位を取得できているのだけれど再度授業に出席したいという学生は過去にも少なからずいた),再学習は1度目の学習に比べて一般的には成績が良くなるという成績上の意味もあるが,それでも,履修上の負担は大きくなる。時間割上で他の履修したい科目を登録できなくなってしまう危険性もある。
きちんとした理由で提出できなかった学生で,今から提出希望があれば,連絡して欲しい。提出先と同じアドレスでかまわない。
評価結果についてはまた後日。
2007年11月24日土曜日
2007年11月23日金曜日
間歇強化
昨日に続いてきょうも出張授業。今回はもともと心理学に関心がある生徒が集まっていて,ずっと楽しい時間になった。心理学はどうしても臨床心理学のイメージが強く,しかも,一般の高校生が感じている範囲を考えれば,実際の臨床のうちの一部に限定されてしまいがちである。高校での出張授業で一番伝えたいことは,何より心理学が面白い学問であることなのだけれど,なぜ面白いかと言えば,人間のあらゆる側面に関わる可能性のある学問だからなのである。多方面に亘る応用の一つである臨床は言うに及ばず,基礎領域はその導入から興味深い現象は数多く,さらにその広さと深さは果てしがない。一時期に比べると心理学を志す高校生の数が減りつつあるようだが,心理学の実際の姿を見てもらえれば,最も学びたい学問のひとつになってくれると楽観している。なんて書くと学長から「甘い」というつっこみが入りそうだけれど・・・。
きょうはこの授業に続いて,4つの高校を訪問した。親和の現状の説明と12月23日の受験生を対象としたウィンターキャンパスの紹介が主目的である。今年度はこれまでにも40校くらい訪問させていただいているのだが,高校によっても,また先生によっても対応は様々である。きょうの1校目はたまたまご担当の授業直前になってしまい,早く帰ってくれというけんもほろろの対応だった。
体調もさほどすぐれないような日だと,このような対応があると,もう帰ってしまおうかという気になってしまうのだが,頑張って訪問したその後の3校ではいずれも楽しい時間となった。結構な坂を登ったところにある高校でも,峠を越えてかなり車を走らせたところにある高校でも,またそこからの戻りがけの高校でも(ここは4時半ころになっていた),とてもきちんとこちらの話に耳を傾けてくださり,また貴重なご意見を伺うこともできた。こうしたことがあるからこそ,高校訪問そのものが楽しめる仕事になる。文字通りの間歇強化である。そして忘れずに付け加えれば,同じ簡潔でも罰(弱化)が行動を抑制する力は間歇強化に比べるまでもなくごくわずかである。もちろん,こうした訪問によって,親和を進学先として考えてくれる高校生がひとりでも増えてくれればさらによいことは言うまでもない。
画像に上げているものは,模擬授業でも使っている自宅の近くにあるあるお宅の表札。行動分析学に基盤を置いている私にも,こうしたゲシュタルトのお話しも十分楽しめる。問題があればすぐに消します。
2007年11月3日土曜日
嬉しい知らせ
つい先日書いた内容を今年度もまたサポートする事実が2つわかった。嬉しい知らせである。
ひとつは,親和の児童教育学科から43名が小学校の教員採用試験に現役合格したこと。卒業生を含めた26名が神戸市の小学校教員に合格しており,後者の数字は,国立大学法人の兵庫教育大学,大阪教育大学,あるいは親和より規模の大きな私立大学を凌いで大学別ではトップの数字なのだそう。
もうひとつは,大学院の心理臨床学専攻の修了生が受験していた臨床心理士の資格試験の合格者について。最終的な実数は把握できていないが,1次試験の受験者20名あまりのうち,9割以上が合格しているとのこと。まだこれから2次試験を控えているが,これも嬉しい知らせである。ちなみに,昨年度も75%程度の最終合格率となり,開設以来昨年度までの4年間で50名程度の資格取得者に加えて,今年度もその数字を順調に積み上げることができそうである。
先日も書いたが,親和のいわゆる受験のための偏差値は必ずしも高くはない。また,学費等のことも関係しているのだろうが,第一志望で入学してくる学生の数も決して多いわけではない。けれども,入学後,彼女らが真摯に取り組み,教職員がサポートした結果としてこうした数字があがってくるのは,ほんとうに嬉しい話である。手前みその話になってしまうけれど,良いこともそうでないこともきちんと対外的に知らせるのは大切なことだと思う。
ひとつは,親和の児童教育学科から43名が小学校の教員採用試験に現役合格したこと。卒業生を含めた26名が神戸市の小学校教員に合格しており,後者の数字は,国立大学法人の兵庫教育大学,大阪教育大学,あるいは親和より規模の大きな私立大学を凌いで大学別ではトップの数字なのだそう。
もうひとつは,大学院の心理臨床学専攻の修了生が受験していた臨床心理士の資格試験の合格者について。最終的な実数は把握できていないが,1次試験の受験者20名あまりのうち,9割以上が合格しているとのこと。まだこれから2次試験を控えているが,これも嬉しい知らせである。ちなみに,昨年度も75%程度の最終合格率となり,開設以来昨年度までの4年間で50名程度の資格取得者に加えて,今年度もその数字を順調に積み上げることができそうである。
先日も書いたが,親和のいわゆる受験のための偏差値は必ずしも高くはない。また,学費等のことも関係しているのだろうが,第一志望で入学してくる学生の数も決して多いわけではない。けれども,入学後,彼女らが真摯に取り組み,教職員がサポートした結果としてこうした数字があがってくるのは,ほんとうに嬉しい話である。手前みその話になってしまうけれど,良いこともそうでないこともきちんと対外的に知らせるのは大切なことだと思う。
2007年11月1日木曜日
心理学科の居場所
尊敬する友人(と呼びたい)のひとり,関西学院大学の中島定彦先生がこの春から在外研究員としてシドニー大学に滞在されている。今更ながら気づいたのだけれど,彼のブログ(シドニー日誌)の初期の記述の中にこんなものがあった。
シドニー大学の「School of Psychology」は「Faculty of Science」に属しているので、まとめて邦訳すれば「理学部心理学科」。他に理学部は、「生物学」「化学」「地学」「科学史科学哲学」「数学統計学」「分子生化学」「物理学」の「School」がある。このことからも心理学が自然科学の1つとして位置づけられていることがよくわかる。
これは,私が学位を取得したUCLでも似たようなものである。心理学科 Department of Psychology は,生命科学部 Faculty of Life Sciencesに所属しており,同じ学部には,解剖学・進化生物学(+医学史), 生化学・分子生物学,生物学,人間コミュニケーション科学,薬学,音声学・言語学,生理学が学科として並んでいる。ここでもやはり心理学は自然科学の一部であることがわかる。
UCLでのスーパーバイザーProf Phil Reedはウェールズ大学のスウォンジー校に異動して数年になる。現在はヨーロッパ行動分析学会の会長の重責も担いつつ,基礎と臨床の両方で活躍中。スウォンジー校の心理学科は人間科学部 School of Human Sciences に属しており,応用社会科学 Applied Social Sciences, 児童学 Childhood Studies, スポーツ科学 Sports Sciencesと共に名前を連ねている。
同じ学問であってもそれぞれの国にはそれぞれの歴史があるから,同列に論じることができないことは承知の上で,せめて心理学が「文学部」にいる状況は脱したいと思っているのは私だけではないはずなのだけれど・・・。
2007年10月28日日曜日
手段としての入試の先にあるもの
親和でも入試が始まっている。きょうは公募制前期推薦(基礎学力試験型)の試験での試験監督とAO方式の面接を担当した。
本当にいろいろな入試形態があって,今年度入試委員の役割を仰せつかっている私にもよくわからない。どんなことにもよい面とそうでない面があって,様々な入試形態があることについてももちろんそうである。例えばきょうのAOで面接した高校生は,いろんな中からなぜAOを選んだのかと問うと,「自分が○○をやりたいと思っていることを,直接先生に伝えられるから」と答えてくれた。確かに,どんなにやる気があっても,勉強したいと思っていたとしても,学力試験には直接反映しない。一方で,やる気さえあれば基礎学力を問う必要はないのかという批判をAOは抱えてしまう危険性を持っている。あるいは,面接は苦手だがペーパーテストは得意という高校生もいるだろうし,その逆もあるだろう。要は,どんな入試形態であれ,私たちが目指す教育方針の下に行われる特定の領域についての授業をある程度以上理解する水準に達しているかどうか,それをこなす力を持っているかどうかを問うているに過ぎないのだと私は思っている。
もうひとつ入試に関して私が思うことは,いわゆる「偏差値」と大学の教育内容との関連である。学力の高い生徒が集まる大学で行われている教育と,そうでない大学での教育には,学生の水準に合わせるという側面での違いがある。けれども,そこで扱われている内容(たとえば様々な大学の心理学のカリキュラムを見比べて欲しい)についてはそれほど大きな差があるわけではない。伝え方,選ばれることば,紹介される例や研究内容など,さまざまなオプションの違いはあるが,例えば学習心理学や研究法で私が伝えたい内容は学生の学力水準の違いを強く反映しているわけではない。私の教育とは関係ないが,その結果(とあえて言いたい),親和の大学院を修了した後に受験する臨床心理士の合格率や,児童教育学科を卒業して小学校の教員になる実数は,一般に「レベルが高いと言われている」大学と十分に互角以上の実績をあげている。
大学で学ぶのは目的であり同時に将来の夢を実現するための手段でもあり得る。ある勉強をしたい,活動をしたい,人間関係を広げたいなどなどの目的そのものでもあり得るし,卒業後に教員になりたい,心理関係の仕事をしたい,大企業に勤めたい,公務員になりたいなどなどの目的を実現するための手段でもあり得る。けれども,入試というのはどのような意味からも手段でしかない。合格することの難しさが,最終的な目的を判断基準としたものであればいいが,現実はそうでない。大変な思いをして入学して得られるものと,それほど勉強しないで入学して得られるものと,必ずしも大きな違いがあるわけではないように思うのである。そんな意味では,親和は世に言う「お買い得な」大学の一つだと思うのだけれど・・・。
本当にいろいろな入試形態があって,今年度入試委員の役割を仰せつかっている私にもよくわからない。どんなことにもよい面とそうでない面があって,様々な入試形態があることについてももちろんそうである。例えばきょうのAOで面接した高校生は,いろんな中からなぜAOを選んだのかと問うと,「自分が○○をやりたいと思っていることを,直接先生に伝えられるから」と答えてくれた。確かに,どんなにやる気があっても,勉強したいと思っていたとしても,学力試験には直接反映しない。一方で,やる気さえあれば基礎学力を問う必要はないのかという批判をAOは抱えてしまう危険性を持っている。あるいは,面接は苦手だがペーパーテストは得意という高校生もいるだろうし,その逆もあるだろう。要は,どんな入試形態であれ,私たちが目指す教育方針の下に行われる特定の領域についての授業をある程度以上理解する水準に達しているかどうか,それをこなす力を持っているかどうかを問うているに過ぎないのだと私は思っている。
もうひとつ入試に関して私が思うことは,いわゆる「偏差値」と大学の教育内容との関連である。学力の高い生徒が集まる大学で行われている教育と,そうでない大学での教育には,学生の水準に合わせるという側面での違いがある。けれども,そこで扱われている内容(たとえば様々な大学の心理学のカリキュラムを見比べて欲しい)についてはそれほど大きな差があるわけではない。伝え方,選ばれることば,紹介される例や研究内容など,さまざまなオプションの違いはあるが,例えば学習心理学や研究法で私が伝えたい内容は学生の学力水準の違いを強く反映しているわけではない。私の教育とは関係ないが,その結果(とあえて言いたい),親和の大学院を修了した後に受験する臨床心理士の合格率や,児童教育学科を卒業して小学校の教員になる実数は,一般に「レベルが高いと言われている」大学と十分に互角以上の実績をあげている。
大学で学ぶのは目的であり同時に将来の夢を実現するための手段でもあり得る。ある勉強をしたい,活動をしたい,人間関係を広げたいなどなどの目的そのものでもあり得るし,卒業後に教員になりたい,心理関係の仕事をしたい,大企業に勤めたい,公務員になりたいなどなどの目的を実現するための手段でもあり得る。けれども,入試というのはどのような意味からも手段でしかない。合格することの難しさが,最終的な目的を判断基準としたものであればいいが,現実はそうでない。大変な思いをして入学して得られるものと,それほど勉強しないで入学して得られるものと,必ずしも大きな違いがあるわけではないように思うのである。そんな意味では,親和は世に言う「お買い得な」大学の一つだと思うのだけれど・・・。
2007年10月3日水曜日
就職活動と卒業論文
私はいわゆる就職活動をしたことがない。もちろん,大学に就職するに当たっては,いくつもいくつもいくつもいくつも応募して,その回数マイナス1回失敗してきた。
ここではもちろんそんな話でなく,最近話題になった文部科学省による、「原則4月」と定めている大学の入学時期について、年内にも完全に自由化されたことと関連する話である。
4回生のゼミは運営が難しい。就職活動と重なるためである。いきおい学生ひとりひとりと授業時間外に会うことになる。
私は原則として9月入学・9月卒業に賛成である。高校3年生の3学期が授業が成立しにくい以上に,大学4回生の授業は成立しにくい。下手をすると3回生の後半から就職活動に気持ちが移ってしまう学生も少なくないだろう。9月入学・9月卒業(実際はおそらく6月卒業になるだろうが)のシステムにすれば,大学入試はすべて4月から6月の間に実施し,大学生の就職活動は翌年の4月入社に向けて卒業後から始めればよい。少なくともきちんとした授業を高校でも大学でもしようとすればこれで問題はなくなる。
これまた最近のニュースに,受験勉強を全くしたことがない大学生が相当数いるという話があった。親和でもそうだけれど,様々な入試形態が採られるようになったこともその一因だろう。もし高校を卒業するまで行き先としての大学が決まっていなければ,おちおち遊んでばかりはいられない。4月から始まる試験に向けて今よりはよほど勉強する高校生(卒業生)は増えるのではないだろうか。
もちろん,この考えにも問題がないわけではない。格差が広がる一方であるという社会情勢の中で(実際,年収1,000万円以上の割合と200万円以下の割合が増えているという),大学の学費を支払うのは,多くの家庭にとって決して楽なことではない。その上,高卒後半年間,大卒後9ヶ月もの間,文字通り「無所属」で過ごすというのは,家計への影響だけでなく,様々な問題を引き起こす危険性も考えられる。空白の1年(プラス3ヶ月?)の過ごし方は,前首相がのんびりと「ボランティアでもさせたらいい」というわけにはいかないのだろう。
それでも,きょうもまた4回生のゼミが成立しなかったことを思うと,また学生たちの真面目な就職にかける姿勢と卒業研究との板挟みになっている状況を思うと,決してこのままでいいとは思えないのも事実なのである。
ここではもちろんそんな話でなく,最近話題になった文部科学省による、「原則4月」と定めている大学の入学時期について、年内にも完全に自由化されたことと関連する話である。
4回生のゼミは運営が難しい。就職活動と重なるためである。いきおい学生ひとりひとりと授業時間外に会うことになる。
私は原則として9月入学・9月卒業に賛成である。高校3年生の3学期が授業が成立しにくい以上に,大学4回生の授業は成立しにくい。下手をすると3回生の後半から就職活動に気持ちが移ってしまう学生も少なくないだろう。9月入学・9月卒業(実際はおそらく6月卒業になるだろうが)のシステムにすれば,大学入試はすべて4月から6月の間に実施し,大学生の就職活動は翌年の4月入社に向けて卒業後から始めればよい。少なくともきちんとした授業を高校でも大学でもしようとすればこれで問題はなくなる。
これまた最近のニュースに,受験勉強を全くしたことがない大学生が相当数いるという話があった。親和でもそうだけれど,様々な入試形態が採られるようになったこともその一因だろう。もし高校を卒業するまで行き先としての大学が決まっていなければ,おちおち遊んでばかりはいられない。4月から始まる試験に向けて今よりはよほど勉強する高校生(卒業生)は増えるのではないだろうか。
もちろん,この考えにも問題がないわけではない。格差が広がる一方であるという社会情勢の中で(実際,年収1,000万円以上の割合と200万円以下の割合が増えているという),大学の学費を支払うのは,多くの家庭にとって決して楽なことではない。その上,高卒後半年間,大卒後9ヶ月もの間,文字通り「無所属」で過ごすというのは,家計への影響だけでなく,様々な問題を引き起こす危険性も考えられる。空白の1年(プラス3ヶ月?)の過ごし方は,前首相がのんびりと「ボランティアでもさせたらいい」というわけにはいかないのだろう。
それでも,きょうもまた4回生のゼミが成立しなかったことを思うと,また学生たちの真面目な就職にかける姿勢と卒業研究との板挟みになっている状況を思うと,決してこのままでいいとは思えないのも事実なのである。
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