2007年10月28日日曜日

手段としての入試の先にあるもの

親和でも入試が始まっている。きょうは公募制前期推薦(基礎学力試験型)の試験での試験監督とAO方式の面接を担当した。

本当にいろいろな入試形態があって,今年度入試委員の役割を仰せつかっている私にもよくわからない。どんなことにもよい面とそうでない面があって,様々な入試形態があることについてももちろんそうである。例えばきょうのAOで面接した高校生は,いろんな中からなぜAOを選んだのかと問うと,「自分が○○をやりたいと思っていることを,直接先生に伝えられるから」と答えてくれた。確かに,どんなにやる気があっても,勉強したいと思っていたとしても,学力試験には直接反映しない。一方で,やる気さえあれば基礎学力を問う必要はないのかという批判をAOは抱えてしまう危険性を持っている。あるいは,面接は苦手だがペーパーテストは得意という高校生もいるだろうし,その逆もあるだろう。要は,どんな入試形態であれ,私たちが目指す教育方針の下に行われる特定の領域についての授業をある程度以上理解する水準に達しているかどうか,それをこなす力を持っているかどうかを問うているに過ぎないのだと私は思っている。

もうひとつ入試に関して私が思うことは,いわゆる「偏差値」と大学の教育内容との関連である。学力の高い生徒が集まる大学で行われている教育と,そうでない大学での教育には,学生の水準に合わせるという側面での違いがある。けれども,そこで扱われている内容(たとえば様々な大学の心理学のカリキュラムを見比べて欲しい)についてはそれほど大きな差があるわけではない。伝え方,選ばれることば,紹介される例や研究内容など,さまざまなオプションの違いはあるが,例えば学習心理学や研究法で私が伝えたい内容は学生の学力水準の違いを強く反映しているわけではない。私の教育とは関係ないが,その結果(とあえて言いたい),親和の大学院を修了した後に受験する臨床心理士の合格率や,児童教育学科を卒業して小学校の教員になる実数は,一般に「レベルが高いと言われている」大学と十分に互角以上の実績をあげている。

大学で学ぶのは目的であり同時に将来の夢を実現するための手段でもあり得る。ある勉強をしたい,活動をしたい,人間関係を広げたいなどなどの目的そのものでもあり得るし,卒業後に教員になりたい,心理関係の仕事をしたい,大企業に勤めたい,公務員になりたいなどなどの目的を実現するための手段でもあり得る。けれども,入試というのはどのような意味からも手段でしかない。合格することの難しさが,最終的な目的を判断基準としたものであればいいが,現実はそうでない。大変な思いをして入学して得られるものと,それほど勉強しないで入学して得られるものと,必ずしも大きな違いがあるわけではないように思うのである。そんな意味では,親和は世に言う「お買い得な」大学の一つだと思うのだけれど・・・。

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