2008年8月28日木曜日

お待たせしました: 認定心理士

23日(土)に認定委員会が開かれて,ようやく神戸親和からの申請者の審査が完了しました。私のチェック漏れのせいか,2人の保留が発生しましたが,その他の44名については合格の判定が得られました。

保留の2名についても,再度の審査で合格となることがほぼ確実に予測されるような事例です。これまでこのblogで紹介していたような,研究法や実験実習など,履修した科目そのものに問題があるような理由での保留ではありません。ですから,今年度申請した方はすべて合格したと考えていただいてよいと言えます。書類を作成してから5ヶ月もかかってしまったのは,私のチェック作業が手間取ったことによるものです。できるだけ早くに合格通知が必要だった方にはこの場でお詫びを申し上げます。

もうひとつ,資格関係の話題。今年の日本心理学会(第72回大会)は9月19日から21日までの3日間,北海道大学で開かれます。この会期中に「心理職の国資格化の最近の動向と今後のゆくへ -どこに問題があるのか-」という講演会が開かれます。臨床心理士と医療心理師から成る,いわゆる2資格1法案以来の経過と今後の展望が扱われるようです。

ともあれ,認定心理士の資格取得,おめでとうございます。

2008年8月9日土曜日

ちょっと嬉しいこと

8月11日の月曜日が,親和の前期成績の提出締め切り。学生には常々締め切り前にきちんと計画を立ててと偉そうに宣っていながら,その実,自分はと言えば,学生時代から染みついた行動傾向から全く抜け出せずにいる。とても適応的とは言えないからこそ,学生にはそうならないようにという老婆心での発言とお許しいただければよいのですが・・・。

さて,レポートを読んで評価するのは,時に苦痛で時に楽しい。文字通りVRの弱化とVRの強化が平行して走っているような状態である。まあもうひとつ,評価して提出することが最終的な強化(この場合の好子は教務課の職員さんの微笑み,それとも仕事を完遂することに対する報酬であるはずの賃金?)を受けているのだろうけれど。尤も,その強化も,より主観的には,何もしないでいると教務課からの催促という嫌子が出現するから,嫌子出現の阻止による強化であると言った方がより正しい気もする。

などという他愛もないことを考えていたら,大学院の研究法特論の授業の感想(だからレポートの内容そのものではないけれど)で,好子をいくつも発見している。たとえば,Skinnerを誤解していた,Darwinに影響を受けていたことすら知らずにいた,さらには,私が授業中に喋った中で印象に残った言葉として,「単一被験体の行動生起頻度を観察することの重要性は、事実を事実として観察し、解釈はしないことにある」をあげてくれた院生もいた。

そうなのである。事実と解釈・意味づけ(さらには理論)とどちらがより重要かと言えば,そこに現実として存在する事実なのである。それに意味づけをして解釈すると,何となく立派になったような感じがして,感心してしまうことがあるが,さて,その意味づけや解釈によって,その事実が理解しやすくなるのだろうか,それとも・・・?

正直に言えば,このことは,私自身それほど昔から理解していたことではない。学生時代だったか院生時代にだったかに読んだSkinnerのAre Theories of Learning Nesessary?という論文(今から半世紀以上前の1950に出版された)に書かれていたにも関わらずである。

2008年8月8日金曜日

心理学(共通教育) レポート締め切りました

0:58のタイムスタンプのあったメールを最後に心理学のレポート提出を締め切った。送信直後に受領のメールを返信できないために,届いていたかどうか不安に感じていた学生が若干いたことについて,申し訳なく思う。

ざっと眺めた限りでは,とても丁寧に書かれたものから(わたしも昔昔,その昔,ときどきそのようなレポートを書いた記憶があるが),時間に追われてやっつけ仕事になったものまで,例によって多種多様である。

心理学は,一般にイメージされるものと,アカデミックな場所で実際に行われている学問としての活動とのギャップが,大きいものの代表だと思う。記憶している学生がいるかどうか,授業の一番最初に,心とは何かを自由に書いてもらったが,そこで書かれていた内容と,今回の課題で書かれた内容との変化を知りたいのが,課題の目的である。もちろん,とりわけ心理学科の学生であれば,心理学関連の授業はこれだけではないから,その変化をもたらしたものはこの授業だけではないが,少なくともその原因の一つではあるはず。換言すれば,私の授業が学生にどのような変化をもたらしたのかを知りたいのである。そして,望むらくは,その変化が小さくないものであって欲しいのではあるけれど・・・。

2008年8月4日月曜日

神戸松蔭 学習心理学Ⅰ レポート締め切りました


0:58のタイムスタンプのレポートを最後にレポート提出を締め切った。私の不注意で何度も確認メールを催促しなければならなかった方には,この場を借りてお詫びしたい。

さて,レポートの内容は,これはいつもそうだが,自分なりの考え方をまとめたものから,いくつかのページをそのままつぎはぎしたものまで様々である。後者については,文の表現が途中で変わっていたり,その他の理由で一見して,剽窃したものであることがわかる場合が多い。ちょっと怪しいなと思ったら,一つの文章を検索すれば,そのまま引用した(この場合は剽窃だが)ページがわかる。同じ使うにしても,引用を明示するなどすればよいのにと思うことしきりである。

感想にもいろいろと貴重なものがあった。私語に対する思いや,大学生のあり方に言及したもの,比較的否定的なものが多くあったのは,サンプリングの偏りなのだろうとは思う。ただ,今の大学は昔の大学ではない。少なくともこれはよいことなのだが,様々な理由で大学で学ぶことができなかった人が多かった昔に比べて,遙かに多くの割合の人が大学で学ぶことができている。たとえばこのページによれば,1960年から右肩上がりで上昇した大学進学率は70年代の半ばから90年代の初頭まで約25年の間,25%前後で推移していた。そして,その90年代初頭から再び右肩上がりになって,現在では40%を越えている。つまり5人に2人は大学,さらに短大,高専,専門学校を含めてしまうと70%を越えて,ほぼ4人に3人が,いわゆる高等教育を受けていることになる。さらに,同じページの下の方には,80年代半ばに3万人余りだった大学院への進学者も実数として約3倍に伸びていることが示されている(ちょっと見にくいが,右上の図がその変化を示したもので,画像をクリックすれば,より大きい図を見ることもできる)。

いまさらここに書くまでもないが,Martin Trowの言う,エリート型,マス型,ユニバーサル型の分類で言えば,日本の現状はすでにマスを越えてユニバーサル型に入っていると考えてよいだろう。一部にエリート教育が可能な大学はあるだろうが,誤解を怖れずに書けば,親和であれ松蔭であれ,他の多くの大学と同様にユニバーサル型の大学として存在しなければならないのが現状である。そこで,かつての大学のイメージを基準に現状を見ると,納得しにくい点がいくつか現れてくるのは致し方ない。かくあるべきという理想と乖離した現状を否定することは,そのような大学の存在意義自体を否定することに他ならない。そうでなくて,私たちがやるべきことは,現状をきちんと把握して,それがあくまでも「現状」であることを認識して,そこから出発することしかない。FDであれ,学生による授業評価であれ,第三者評価であれ,いずれも現状がどうかを理解して,そこから少しでもよい方向に向けるにはどうすればよいかを考える手段なのである。

回りくどい言い方になるが,私の学習心理学の授業でずっと私語が続いてしまっていたのは,学生の問題だけでなく,私自身の問題でもあるのだということなのである。後期(実はこの期に及んでまだ交代できないかと模索中なのだが)には,さしあたって座席指定(やるからには,教務にお願いするのでなく,前任校でやっていたように,私が毎時間座席指定)するしかないかと考えている。と,同時に,これまでの私なりの工夫では十分ではないと言うことなのだから,授業の進め方自体も,私が基本的に説明するというスタイルから,テキストを読みながら一緒に考えるなど,何か別の(ある意味で高校で学生が馴染んでいるだろう)スタイルに変えてみるのも一つの手段かと考えているところである。