2007年12月20日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第12回 (12月20日)


前回の小テスト欠席した学生のための対応をとりあえず。

12月13日の小テストを正当な理由で受験できなかった学生は,ここから欠席者用レポート課題2.pdf をダウンロードしてください。詳細については,このファイルに記載してあります。

授業内容についてはまた後で。

2007年12月19日水曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第11回 (12月13日)

遅くなってしまったけれど前回の報告。

第2回の小テストを実施。いつもながら,今回もきちんと受験してくれることに感謝。もちろん成績はまた別の話だけれど,テストが公正に実施できることはまず何よりも大切なことである。小テストはすでに採点済みだけれど,明日の授業で報告するためにここでは何も書かない。


さて,きょうから臨床の話。行動的なアプローチの臨床の基礎はあくまでも学習心理学である。もちろん「認知」のくっつかない学習心理学である。現実にはパヴロフ型とオペラントの2つの条件づけのどちらか一方だけで処理できる話ではないのだが,まずは導入としては典型的な例から始めなければならない。もちろん臨床だけではないのだけれど,これまで勉強してきた内容は日常場面の様々な行動を説明する枠組みを与えるものなのである。これを前提として理解してもらえれば,今回のパヴロフ型による獲得と介入の方法の説明,次回のオペラントによる獲得と介入,そして年明けのパフォーマンスマネジメントをより深く理解できるだろうし,自分自身を,これまでとは異なる新しい枠組みで捉えられるようになると思うのだけれど・・・。

2007年12月16日日曜日

認定心理士の基礎: 心理学研究法の重要性

今年度より,日本心理学会の認定心理士資格認定委員会の委員を担当させていただいている。昨日がその第1回で,前委員の方々と協同作業(新任委員のOJTを兼ねてのことだろう)で,多数の資格審査を行った。

認定心理士の資格そのものについての議論は様々であり,心理学関連で最も力のある臨床心理士をはじめとして,学会が認定する資格は本当にいくつあるのかわからないのが現状である。国家資格化の問題を含めて今後きちんと考えていかなければならない。それはさておき,今回担当させていただいて改めて気づいた2点を書き留めておきたい。

ひとつは,いわゆる心理学科でなく,他学科の卒業生からの申請が多数あったこと。資格審査は(日本心理学会の該当ページはこちら),「心理学の専門家として仕事をするために必要な、最小限の標準的基礎学力と技能を修得している」かどうかについてのものである。ここで強調したいのは,「最小限」という文言であり,いわゆる心理学科を卒業すれば自ずと同等レベルの学習を修了していることになるのだが,関連学科では必ずしもそうではない。ここに認定心理士という資格認定を必要とする理由の一つがあったことに,私は遅まきながら気づいたのである。

もうひとつは,今回の資格認定で保留や不合格になった応募者の多くが,基礎科目のうちの研究法や実験実習に不足が生じていたことである。基礎科目として設定されているのは,A.心理学概論,B.心理学研究法,C.心理学実験・実習の3領域である。それぞれ,「心理学を構成する主な領域に関する均衡のとれた基礎知識を備えているかどうかを判定」,「心理学における実証的研究方法の基礎知識を備えているかどうかを判定」,「心理学における実験的研究の基礎を修得する意味で心理学基礎実験・実習の経験をもっているかを判定」することが主旨である。

つまりは,大学での心理学教育の基礎はこの3領域にあることを意味しており,各論での深い知識は,こうした基礎領域の上に積み上げられてこそのものだということに注意して欲しいのである。今回保留となった応募者のひとりは,G領域(臨床心理学・人格心理学)で10科目ほどの履修を記録していたが,上記のうち,実験実習の履修内容に不明な点があったために認定できなかったのである。D.知覚心理学・学習心理学,E.教育心理学・発達心理学,F.生理心理学・比較心理学,G.臨床心理学・人格心理学,H.社会心理学・産業心理学の5領域は選択科目として設定されているが,これらのうち3領域で3単位以上で合計16単位あることが資格認定要件として定められているだけである。換言すれば,人格心理学や臨床心理学について全く単位を修得しなくても認定心理士としての要件を満たすことができるということである。

これは私の未だに消すことの出来ずにいる偏見に過ぎないのかもしれないが,心理学を勉強することは,すなわち人格・性格・臨床といった領域の勉強をすることであると考えている人が少なくないように思えてならない。この資格要件を見てもらうと,そうではなくて,研究法や実験的な方法論を修得することこそが,心理学の専門教育と不可分なのであることに気づくだろう。実際,資格認定で詳細に審査するのは基礎領域,とりわけ研究法と実験実習なのである。だからこそ,申請にあたってシラバスのコピーを添付することが義務づけられているのがこれら2領域だけなのである。

今月末には,資格認定の要件に若干の変更が生じて,申請用紙等も日本心理学会のウェッブページからダウンロードできるようになる。現行の資格認定基準は2012年3月まで生き続けるのだが,今回改定される認定基準でも基礎領域の重要性はいささかも減じることはない。それどころか,心理学概論と研究法とは,選択科目の3領域と同様に3単位でなく4単位の修得が必要となり,その必要性を増しているのである。

2007年12月12日水曜日

心理学研究法 第11回 (12月10日)


研究デザインの2回目。今回のポイントは2つ。研究,特に実験は独立変数と従属変数の関係を調べるための方法であるが,それがうまくいくかどうかは,剰余変数の統制がきちんとできるかにかかっている。研究デザインはその統制を行うための基本的な考え方であることがひとつ。これは,剰余変数の統制の復習として役に立ってくれていればよいのだが。

もうひとつは,発達研究のような,時間(年齢)を独立変数として用いる研究方法の難しさである。これをクリアするための方法として縦断的・横断的・コーホート研究があることがもうひとつ。

授業で配布したプリントでは,正高信男の3才児と4才児の母親との関わりを扱った研究のグラフが鮮明でなかった。いつものように,ここに上げたファイルでは,もう少し見やすくなっていると思う。リアクションペーパーには,グラフの見方が難しいなどといったコメントがいくつか見られたが,研究法という授業の中で,そのようなリテラシーに関する実習を含んであげれば,実験実習で作成するレポートなどとの関連も高まって,学生のニーズに応えられるのかもしれない。来年度以降の課題としたい。

正高信男の名前を紹介したら,知っている学生がそれほど多くなかった。親和の図書館にも数多く配架されているのだが,蔵書検索で調べてみたところ,2~3冊が貸し出し中になっているだけだった。授業で紹介した,画像にある「ことばの誕生」も現時点では貸し出し可の状態である。一般向けにやさしく書かれているが,内容自体は興味深いものが多くあるように感じる。時間を見つけて読んで欲しい。研究自体のイメージももう少しつきやすくなるかもしれない。

ちなみに,ことばの誕生に関して,正高信男が生命誌研究所に書いたものがウェッブ上で閲覧できるが,これについてはまた稿を改める。

さて,来週は第1回小テスト。前回の授業で話したように,11月19日に実施したものは無効としているから,今回が第1回。前回分を含まずに,以下が範囲。

第7回 (11月12日) 剰余変数の統制.pdf
第8回 (11月19日) 小テスト・剰余変数の統制2(ファイルは次回)
第9回 (11月26日) 剰余変数の統制2.pdf ・観察法の導入まで(ファイルは次回)
第10回 (12月3日) 非実験的方法 観察法.pdf
第11回 (12月10日) 研究デザイン.pdf

つまり,剰余変数の統制,非実験的方法(観察法),研究デザインの3つがテーマである。なお,観察法で扱った,行動のサンプリング方法については出題しない。

残りの4回の最後にもう一度小テストを実施し,今回と合わせて40点満点。別途レポートを30点満点で出題して,当初予定の出席点30点,小テスト70点の代わりとする。

2007年12月6日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第10回 (12月6日)

先週に続いての社会的行動,そして行動と感情の関係の1回目。その前に,霊長類研究所の最近の大きな話題を公開されているビデオで紹介した。

模倣も,表情によるコミュニケーションも,いずれも話題が具体的で身近なためか,リアクションペーパーの内容も比較的豊かだった。これらの背後にあるメカニズムとしての行動分析学につながってこうした現象を捉えられるようになれればよいのだけれど・・・。

たとえば,こんな反応があった。「日本人が外国人の表情をよく評価するのは,素直に喜んでくれる人があまり周りにいないため・・・」とか,「自分は無愛想とかよく言われるが,海外の人と話すときには自然と表情が豊かになっているように感じる。」とか,「昔からの文化によると思う。個人の気持ちを隠して,無心であることこそを美徳としてきた日本人にはしかたのないこと・・・」といったものである。これらは,いずれも,特定の表情をするという「行動」を他者との関わり,つまり行動の随伴性によって形成されたものとしてとらえて,単に,そこに見える現象を記述するにとどまっていない。日本人の表情はわかりにくい,表情が乏しいといった現象を記述するにとどまらず,なぜそうであるかを,行動の随伴性によって説明できることがわかれば,もっとおもしろいと思うのである。前掲のようなコメントが,どこまで行動の随伴性を意識して書かれているかはわからないが,少なくとも関わりを持つコメントであることには変わりない。このように,日常行動を行動の随伴性という視点から見つめられるようになってくれればとても嬉しい。

次回は第2回小テスト。範囲は以下の通り。

第6回 (11月 8日) 言語行動とルール支配行動
第7回 (11月15日)および 
第8回 (11月22日) 選択行動とセルフコントロール
第9回 (11月29日)および
第10回 (12月6日) 社会的行動

但し,選択行動のうち,対応法則の細かいことについては出題しない。いつもの通り,日常的な行動との対応関係が理解できているかどうか,基本的な用語がきちんと理解できているかどうかを確認するためのテストである。

2007年12月4日火曜日

心理学研究法 第10回 (12月3日)

小テストの扱いを決定した。前回のテストは成績評価に含めない。また原則として採点もしない。希望者のみの採点を行う。成績評価は次回以降のテストと必要に応じてレポートを課すことで行うこととする。いろいろな提案があったが,勉強したことを反映した結果であることを原則とすれば,不正に取得した得点が成績に含めることは避けなければならない。また,授業の進行を考えると同じ内容のテストを再度実施することもできれば避けたかった。こうした理由からの決定である。

きょうは面接法について。そして研究デザインの導入。前年度は剰余変数の統制を研究デザインの後に行ったために,配布プリント(前年度のものを若干手直ししただけ)に重複部分が多くて,授業の進行上に支障を来してしまった。またまた反省。日々反省ばかりです,トホホ。

行動療法学会に参加しました

臨床心理士の資格を取得してから,日本行動療法学会に入会したものの,年次大会への参加は去年に続いて今年でようやく2回目。私が現在本拠としている行動分析学会とずいぶん雰囲気が違っているのがおもしろいと言えばおもしろい。当然基礎系の人がいないこともあって,学会に参加しても知っている人はほんの一握り。そして,なぜか若い人を含めてきちんとスーツを着ている参加者が多いのも際だつ違いの一つである。良くも悪くも行動分析学会はTシャツにジーパンという出で立ちの人が少なくなく,ごくカジュアルな雰囲気なのだが,こちらはもうすこしきちんとしているというか畏まっているというか・・・。

気にかかったことがいくつか。まず,研究発表に,○○性と●○傾向の関係についてという形でまとめられるものが目立ったこと。要は質問紙を複数配ってそこで得られた数値から両者の特性の関係を,因果的に捉えようとするものである。これが現在多く行われている研究法のひとつであることは認めるのだが,行動療法学会でそれが目立ってしまうのはちと寂しい。いきおい,私が聞きたいと思う発表の数はごく少数にとどまってしまうのはありがたいことなのかどうなのか・・・。

もうひとつは,そうした質問紙での研究がメインだからなのだろうが,言葉の使い方がとても雑である。たとえば般化という言葉。おそらく多くの般化は反応般化でなく刺激般化なのだが,そのオリジナルの条件刺激または弁別刺激が何かを明確にしないまま何となく2つの事態が似通っているように見えると般化と呼んでしまっていたりする。参加したワークショップで不安階層表の話が出ていたが,ここではパヴロフ型とオペラントと混同したまま議論が進んで,何がターゲット行動であるのかさえ明確になっていない。「何となく行動療法」,「なんちゃって行動療法」と呼びたいような印象である。ちょっと意地悪な言い方をすれば,認知行動療法は,もともと「なんちゃって行動療法」なのだろうけれど。

もちろん勉強になったこともたくさんあった。上述の言葉が曖昧に使われたまま(極端な例は,操作的定義と言いながら,全くその定義に「操作」が含まれていなかったり)であることに批判するからには,私自身ももう一度その言葉の定義を明確にしなければならない。不安階層表について,これまであまり考えたことがなかったのだが,これについては3つのタイプに分かれることに気づいて,論文にまとめてみようかと思っているところ。

また,従来からブログを読ませていただいている久野能弘のワークショップでは,様々な領域での行動療法の展開,とりわけ学校の先生方を対象としたワークショップの話はとても興味深く,久野先生のお若い頃の活動の様子のビデオというおまけまでついていた。

マンイドフルネスの熊野先生のワークショップでもすぐ使えそうな,簡単なワークを教えていただいた。ただその一方で,熊野先生でさえ,学習理論の基礎的な用語を混乱して使っていたことに驚いたり(三項分析という言葉はいったい誰の造語なんだ?),表面的な類似性からACTの話を仏教とつなげて議論したりというのは私にはどうしてもなじめない。

全体を通して,結局行動療法の基礎が行動分析学にあること,認知という言葉を頭につけて行動療法や行動分析学への間口を広げてくれている現状はやがてきちんと行動分析学に立ち返るためのステップとなってくれるのではという楽観的な見通しを得ることができたのが一番の収穫だったのかもしれない。

2007年12月1日土曜日

It's not fair.

そのうちと書いていて,まだ書けなかったことをまとめておこう。

もう3週間前の親和の学園祭初日。春学期に担当した1回生の基礎ゼミの学生が模擬店出店で参加しているのだけれど,私は仕事で手伝えず。初日のハイライトは,蝦ちゃんが来ることだった。特別にファンというわけではないのだけれど,親和まで来てくれるなら是非見に行こうと,ぴあでチケットを確保して,ふたりの子どもも連れて行こうと妻ともども楽しみにしていた。

しかし,全く基本的な確認を怠って(尤も,何度か大学祭実行委員会に電話をしたり直接でかけたりしたのだが不在ばかり),3歳と4歳の子供達であれば膝上で入場可能だろうと勝手に判断していたところ,入り口で一人1枚ずつ必要ですと言われて,半分(妻とこどもひとり)だけ入ることも考えたのだけれど,諦めようと,すごすごと帰途についてしまう羽目になってしまった。

それで思い出したことがひとつ。チケットを巡る出来事と言うだけで,何も関連性はないこと。ロンドンにいた頃とても頻繁にコンサートやオペラに出かけていた。その一つでの出来事である。ボロディナとホロストフスキーというロシアのふたりがフェスティヴァルホールでオペラアリア集を歌った。コンサート自体はとても楽しかったのだが,事件?は休憩中に起こった。相当なビッグネームの2人だったにもかかわらず,オーディエンスは半分くらい。私が座っていたのはアネクセという1階の前寄りのサイドの席だった。前半のプログラムが終わると,1階席の後ろに座っていた人々が退去して前半分に異動してきたのである。中には2階,3階席あたりから民族大移動よろしく降りてきた人も数多くいたに違いない。

起こった事件というのは私も「それならば」と1階席の中央付近に移動した後だった。隣に座っていたらしきおじさんがトイレからかどこからか戻ってきてお前はどこから来たのかと尋ねるのである。日本からという冗談が口をついて出るような口調ではなかった。ほどなくおじさんは係のおばさんを伴ってもどってきて,後の処理は任したぞとばかりにどっかと座り込んだのである。

そこから先は係の女性と私のやりとり。要するに,It's not fair. お前さんのやったことはフェアでないということである。お前が持っているチケットはアネクセのものである,空席があるからこちらに移るというなら,その差額を払わなければ,フェアでないということである。差額を払わずにここに移りたいというなら,支配人に掛け合いなさいという。私だけでなくて多くの他の人たちも異動しているではないかと言うと,今問題にしているのは,お前のことだ,他の人たちを理由にしてお前の行動を正当化しようとするのはフェアでないという。日本人だと,叱られたとき,注意されたとき,あいつもやっているではないかという理由付けは何となく理解されるものだが,イギリスでは全く意味をなさなかった。

フェアであるかどうかがイギリス人にとってとても重要な行動の基準であることは何となく知っていたけれど,このような形で自分に降りかかってくるとは夢想だにしていなかった。そういえばこんなこともあった。自転車で町中を走っていたときのこと。横断歩道をまもなく渡ろうとする小学生の集団とその集団を先導している男の人がいた。まだ大丈夫と思った私はそのまま走り去ろうとしたのだが,その私の背中に浴びせられたのは,"Zebra Crossing!!"という怒鳴り声。要するに横断歩道を渡ろうとする人がいれば必ず止まれという注意である。

まあ,この後者の例はフェアである云々とは直接関わらないが,イギリス人がルールのようなものを如何に大切にしているかという意味で共通しているようにも思える。さて翻って本邦ではということを言い,あっちはいいとかこっちは悪いと言いたいわけではないが,数学者藤原正彦のことばを最後に引用しておく。

イギリス人はfairを尊ぶ。辞書の,公平な,公正な,適正な,正当ななどとは少し違っているという。「フェアーであることを,イギリス人は絶対的なことと考え,アメリカ人は重要なことと考え,ヨーロッパ人は重要なことの一つと考え,日本人は好ましいことと考える」

ちなみに,冒頭の蝦ちゃんの一件には後日談がある。その場にいた,実行委員の1人が心理の学生で,彼女がかけあってOKをもらってくれていたとのこと。OKをもらって戻ってきたときには私たちは帰宅の途に着いていた。いや,正確に書けば,羊への途。蝦が羊に化けた夜だった。

2007年11月29日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第9回 (11月29日)


いつの間にか11月も終わり。画像は息子が通っている幼稚園の入り口あたりにある木々。すっかり色づいて見事である。

きょうは社会的行動。話題に相応しく?,嫌悪化を生じさせるような対応をしてしまったかと,例によって反省している。何だか日々反省してばかりのようで嫌になってしまう。いいかげんな出席の取り方をしていれば,学生もいい加減な出席状況になるのだろう,次週からは,きちんと1枚ずつ手渡しすることで問題は解決である(と思う)。

そんなこともあって,きょうの授業では学生がいつにも増して遠くにいるように感じられた。しかし,少し安心したのは,リアクションペーパーの内容である。きちんと授業内容を理解しているコメントが数多くあった。やれやれ。私が授業を楽しまないで,誰が楽しめようか・・・。

15日の小テストを正当な理由で受験できなかった学生は,ここから欠席者用レポート課題.pdf をダウンロードしてください。詳細については,このファイルに記載してあります。なお,このファイルを参照するためには(これまでのファイルもそうですが),ここからAcrobat Reader®をダウンロードしてインストールしてください。

2007年11月27日火曜日

心理学研究法 第9回 (11月26日)

先延ばし先延ばしにしてしまう行動傾向が,私にいつ頃から定着してしまったのか,記憶が定かでない。直前まで動かないで,一気に仕上げるのは,もう随分前からのことである。いろんな方々にご迷惑をおかけして,その都度申し訳ないとかそれなりのことばを口にはしても,次の同じような状況に置かれたときに,行動が改善された形跡はないし,むしろ最近は悪化してさえいるという実感さえある。ついさっき,前々からの懸案を「一応」,文字通り「一応」仕上げ「は」した。申し訳なさと自己嫌悪の感情で一杯だが,長い間の胸のつかえが取れたのもまた事実。それでも今回は仕事の仕上がりが全く本意でないだけ,単に申し訳ないというよりも,むしろやましい気分である。「やまいだれ」に「久しい」と書いて疚しい。誰が考えた漢字か知らないが,これ以上似つかわしい漢字はそうそう考えられるものではない。

さて,前回の小テストの対応。きょうの授業で予告なしテスト(前回と同一内容)をしようかと準備したのだが,気を取り直して中止。学生の希望をまず聞いてからとする。もう12月,きょうで第9回めだというのに3回実施すべき小テストが一度も終わっていないという現状。これは前述の私の行動傾向とは一応無関係なのだが,さて,シラバス通りにいくかどうか・・・。ひとつだけ救いなのは,1月に入ってから授業が隔週になること。2回続けて小テストということになったとしても,時間的には2週間の時間を置けることにはなる。

きょうで剰余変数の統制が終わり。実験屋である私の個人的な意見としては,これが理解できれば,心理学研究法の理解としては満点に近い。心理学を学ぶものの根っこと幹が形成されたようなものである。

さて,ひとつの懸案が終わったとは言うものの,12月末までの仕事が目の前にぶら下がっている。こっちはきちんと仕上げなければ・・・。年明け早々に同じような反省文をここに書き連ねることは避けたいのだが・・・。

2007年11月24日土曜日

ウィンターキャンパス


先日高校訪問で紹介したウィンターキャンパス。大学のホームページで探したところ,結構骨が折れてしまった。すぐにわかるところにはなく,受験生の皆さんへから,多くのリストの中にあるウィンターキャンパスを探さなければならない。いちおうここでも宣伝の意味を込めて,リンクを貼っておきましょう。

一般受験を考えている受験生の皆さん,ここからどうぞ。また,このページを訪れた在学生をはじめとするみなさん,どうぞ彼女らに紹介してあげてください。

学習心理学Ⅱ@松蔭 第8回 (11月22日)

秋が深まって,少しずつ寒さが厳しくなる頃に,ひどい咳が何日も続くようになったのは,もう10年以上前のこと。一頃(とりわけロンドンにいる間)は治まっていたのだけれど,今年はもう3週間近くになる。水曜日はとうとう大学も休んでしまい,木曜日の松蔭のこの授業も1コマだけこなすのがやっとやっとだった。

小テストの返却と解説,そして前回の選択行動とセルフコントロールの残りの部分。小テストで出題したのは,弁別と般化,刺激統制,阻止の随伴性の用語の理解と,日常例を挙げること。15点満点で7.2点の平均点(SD 4.40点)は予想よりも低め。ただ,12点(8割)以上の学生が受験者63名のうち12名いたことを考えると,まずまずかとも思う。

行動分析学は,ある意味で研究法などの心理学のコアになる科目と共通点があるように感じる。扱うのは確かにごく日常的な現象なのだけれど,例えば発達心理学で,生後24ヶ月の75%のこどもが二語文を話すとか,社会心理学で,対人間の距離と対人間の親密さの関係には相関関係があるといった内容と,その扱い方,アプローチが根本的に異なっている。行動分析学における行動の随伴性は,喩えるなら文法のようなものである。その文法を知らないでいてもことばを話すことはできる。研究法の基本を知らないでも,表面的にその方法をまねることが出来るように。けれども,その基礎を知っていれば,人間の行動の理解,言葉の理解,心理学の研究の理解がより深まることは言うまでもない。

もうひとつ共通点を探すとすれば,扱われる内容が相互に有機的な関連を持っていることだろう。認知心理学で例えばあるテーマについてほとんど何も知らなくても,別のテーマを学習するときに大きな支障を来すことはさほどないかもしれない。それに比べて,たとえば選択行動であれ,阻止の随伴性であれ,基本的な概念を積み重ねて十分に理解しておかなければ,何をやっているか分からなくなってしまう。もちろん細かい内容になれば,相互に関わりが薄いものもあるのだが,何より行動の随伴性についての基礎的な理解がなければ,どのテーマを学習する上でも困難を伴うのは言うまでもない。あるいは,とりあえず小テストがあるから,テストがあるから,文字通り一夜漬け式に勉強して,その次の日には忘れてしまっても構わないというやり方で取り組んでいる学生が少なからずいるのかもしれない。

しかし,セルフコントロールを話す回に,このように体調を崩していたのでは,言行不一致も甚だしい・・・。反省である。

2007年11月23日金曜日

間歇強化


昨日に続いてきょうも出張授業。今回はもともと心理学に関心がある生徒が集まっていて,ずっと楽しい時間になった。心理学はどうしても臨床心理学のイメージが強く,しかも,一般の高校生が感じている範囲を考えれば,実際の臨床のうちの一部に限定されてしまいがちである。高校での出張授業で一番伝えたいことは,何より心理学が面白い学問であることなのだけれど,なぜ面白いかと言えば,人間のあらゆる側面に関わる可能性のある学問だからなのである。多方面に亘る応用の一つである臨床は言うに及ばず,基礎領域はその導入から興味深い現象は数多く,さらにその広さと深さは果てしがない。一時期に比べると心理学を志す高校生の数が減りつつあるようだが,心理学の実際の姿を見てもらえれば,最も学びたい学問のひとつになってくれると楽観している。なんて書くと学長から「甘い」というつっこみが入りそうだけれど・・・。

きょうはこの授業に続いて,4つの高校を訪問した。親和の現状の説明と12月23日の受験生を対象としたウィンターキャンパスの紹介が主目的である。今年度はこれまでにも40校くらい訪問させていただいているのだが,高校によっても,また先生によっても対応は様々である。きょうの1校目はたまたまご担当の授業直前になってしまい,早く帰ってくれというけんもほろろの対応だった。

体調もさほどすぐれないような日だと,このような対応があると,もう帰ってしまおうかという気になってしまうのだが,頑張って訪問したその後の3校ではいずれも楽しい時間となった。結構な坂を登ったところにある高校でも,峠を越えてかなり車を走らせたところにある高校でも,またそこからの戻りがけの高校でも(ここは4時半ころになっていた),とてもきちんとこちらの話に耳を傾けてくださり,また貴重なご意見を伺うこともできた。こうしたことがあるからこそ,高校訪問そのものが楽しめる仕事になる。文字通りの間歇強化である。そして忘れずに付け加えれば,同じ簡潔でも罰(弱化)が行動を抑制する力は間歇強化に比べるまでもなくごくわずかである。もちろん,こうした訪問によって,親和を進学先として考えてくれる高校生がひとりでも増えてくれればさらによいことは言うまでもない。

画像に上げているものは,模擬授業でも使っている自宅の近くにあるあるお宅の表札。行動分析学に基盤を置いている私にも,こうしたゲシュタルトのお話しも十分楽しめる。問題があればすぐに消します。

心理学研究法 第8回 (11月19日)

きょうは授業の合間を縫って大学から30分くらいの高校で模擬授業。思ったほど反応がよくなかったのが残念だけれど,こればかりは致し方ない。聞くところによれば,この高校では様々な領域を順に聞くことで,その中から自分が関心のある領域を見つけるようにという方法を採用しているとのこと。きょうの32人の中で現時点で心理学に関心がある生徒は2~3人にすきなかった。

さて,大学に急いで戻っての研究法は第1回小テスト。職員さんに持ち込み不可,席は1つずつ空けて座るなどの細かいことをきちんとお願いしていなかったためか,ちょっとどころか相当困ったことになってしまった。少なからぬ学生から,ノートやプリントを机の上に出してやっていたとか,隣の席の学生に見せてもらっていたという報告があった。このようなことをブログに書くことが適当かどうかわからないが,これが現状である。もちろん,急いで付け加えなければならないが,そのような学生が「少なからぬ」ではあっても,大半であるというわけでは決してない。

テストの内容は以下のようなものである。心理学の5つの研究法から3つの名前を書く。研究仮説・対立仮説・帰無仮説のうち,2つについて説明する。3つの変数の名前を使って,実験室実験を説明する。3つの変数のうち,2つについて説明する。さて,「難しい」と感じる学生がいるのだろうかというつもりで出題した内容である。換言すれば,きちんと授業を聴いていれば容易に満点を取ることのできる内容であると思うのだが・・・。

採点して次回の授業で返却する予定だったのだけれど,少し対応について考えなければならないのはとても残念。最近巷を騒がしている,不当・不正表示に匹敵する出来事だと感じる。関連して思い出したことがあったのだが,これについては稿を改めて書きたい。タイトルはIt's not fair!!

残った時間は剰余変数の統制。次回は非実験的方法をまとめる予定。

2007年11月15日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第7回 (11月15日)

後期第1回の小テスト。にも関わらず出席者が少ない。ほとんどの回で80%以上の出席率であったにもかかわらず,きょうは74%。授業後になって,山陽電車が車両故障で90分延着という証明を持ってきた学生がやってきた。私自身もそうだけれど,体調を崩しやすい時期と言うことも重なってのことだろう。いずれにしても,正当な理由で出席できなかった学生への対応は次週の時間にアナウンス予定である。

テストの内容はいつもの通り,基本的な用語の説明と,その日常例を書いてもらうものとした。テスト中に眺めている限りでは大丈夫そうだけれど,さて実際に採点してみるとどういうことになるか。テストは学生一人ひとりの理解度のチェックであると同時に,教員にとっても学生に伝えたいことが伝わっているかをチェックする機能がある。その意味で,採点はとても緊張する作業なのである。

きょうの授業内容は選択行動とセルフコントロール。例によって遅延大強化と即時小強化との選択による定義である。非常に実用的なのだが,並立の選択だけでなく,日常的なセルフコントロールには,遅延大弱化と即時小弱化との強制選択場面,あるいは継時選択場面が多いように感じる。例えば,虫歯になったときの選択。歯医者に行くとちょっと痛い(もちろん虫歯がなおるという強化はあるが,虫歯が痛みを伴っていない場合は,嫌子消失による強化が働かない場合も多い)。けれども行かないでほったらかしにしていると虫歯自体も痛みが生じて,治療の痛みもより大きくなる。すぐあるちょっとした痛みを我慢する選択ができることがセルフコントロール。この場合の対立概念は衝動性でなくて何と呼べばいいのだうろか。尤も,このような場合は嫌子出現の阻止による強化であると言えなくもないのだが,その選択行動に嫌子出現が伴う場合だから,セルフコントロールと呼べないかと思うのだけれど・・・。

いそがしい?

14日はかねてより定期的に集まっている研究会に参加した。4年半前に東京から大阪にやってきたとき,学会などを通じて知っていたある先生に相談したところ,ゼミの出身者に呼びかけてくださり,私を含めて5人で始まった研究会。うち1人は半年もしないうちに,そしてもう1人も1年半前に異動のために抜け,このところ3人で集まっていた。私が半ば無理矢理に引き入れたもうひとりが今日から参加。かつては毎月やりくりしていたのだけれど,今日は実は夏以来初めてだった。

そのときに話題になったこと(私がしたのだけれど)のひとつが,以前にもこのブログで書いた中島先生の活動ぶりである。春にオーストラリアに行かれてからすでに7つ目の論文を執筆中とのこと。しかも論文以外の著作を別にしてである。日本にいるときにも定期的に論文を書かれてはいるが,多忙を極めていたのだろう,貯めていたデータを一気に出版しようという勢いである。

ずっと前,ある先生から頼まれた仕事を忙しいことを理由にお断りしようとして叱られたことがあった。忙しいのは当たり前だから,それを前提にして何をするかを考えなければならない。少なくとも仕事を断るのに忙しいことを理由にしてはならないというものであった。宜なるかなである。その先生も含めて,きちんと仕事を生産的にこなしている人たちは,本当にどこにそんな時間があるのかと思うような結果を残されている。対外的な仕事は削るわけにいかないから,削ることのできる睡眠時間がその資源なのだとか。私など真似しようとしてもできないスゴイ人たちである。

今日の研究会でもそんなことを嫌でも思い出してしまうことがあった。詳細については省くが,さすがに忙しいことを理由にしなくはなっても,低い生産性は相変わらずで,かつては十分に理解していたことさえ定かでなくなっており,肝心の実験や研究を疎かにしてしまっている自分を映し出す現実である。月に一度というのは頻度として決して高くはないけれど,何とか研究という本来の仕事に細々とでも自分を繋げる命綱として大切にしなければならないものなのである。

2007年11月14日水曜日

心理学研究法 第7回 (11月12日)

いつのまにかもう第7回。来週は小テスト。

きょうのテーマは剰余変数の統制。実験を行う上で最も難しく最もおもしろい側面である。きょうのリアクションペーパーには具体例があってわかりやすかったというものが多くて一安心。その一方で,(とりわけ再履の学生に多いが)小テストが不安というものも目立った。(念のために書き添えるが,出席カードはまず出席番号順に並べ替えてチェックを行い,そのあと名前を見ないで感想を読むため,再履かどうかということくらいはおおよそわかる。)

これまた念のために書いておくが,左のLINKSにある神戸親和 心理学研究法ファイルにある,

第3回 研究全体の流れと5つの研究法1.pdf
第4回 研究全体の流れと5つの研究法2.pdf
第5回 リサーチ・クエスチョンと仮説.pdf
第6回 実験的方法.pdf

これらが小テストの範囲。ごく基本的な内容(心理学を学んでいく上で知っておくべきこと)を理解できているかどうかを確認するのが小テストの目的である。今回のリアクションペーパーにも「言葉が難しい」という感想が寄せられているが,なぜそのような「難しい言葉」を使わなければならないかを考えてみてほしい。これについては,次回のQ&Aでも扱う予定。

2007年11月9日金曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第6回 (11月8日)

きょうは言語行動とルール支配行動。スキナーの著作の中で最も議論を呼び,最も難解とされる言語行動の導入として,獲得時の随伴性によって分類できるマンド,タクト,エコーイックの3つだけを紹介する。ルール支配行動が臨床的な,また日常的な問題を理解する上で,学生の関心を惹きやすいと感じるが故に,このテーマをシラバスに載せたというのが本当のところ。
言語行動については避けたい気がしなくもないのだが,ルールについて話すとなると,単に「随伴性を記述した文章」とは定義しにくい。いきおい「タクト」について説明しなければならなくなり,言語行動について導入部分だけでも話す必要が出てくる。

尤も,言語行動は行動分析学を一般の人たちに理解してもらうためのキーとなっていることも否めない。以前は異なる文脈で尋ねていたのだが,今回の言語行動の導入として「ヒトとヒト以外の動物の違い」を書いてもらった。リアクションペーパーに回答が書かれていた36枚のうち,ちょうど半数の18枚が言語であったように,おそらく一般には言語はヒトとヒト以外の動物に線引きをするときにまず最初に思いつくもののひとつであろう。その言語行動も他の,レバー押しに代表されるオペラントとして行動随伴性によって形成されて,維持・抑制されることを理解すれば,行動分析学全体をより深く理解できるだろう。また,行動分析学が「意識」を言語行動であると定義していることから,行動分析学が心的な過程を無視しているというこれもまたよくある誤解の一つを糺すことにもなるだろう。

次回は小テスト。2つの条件づけについては範囲に含めないから,いつもの場所にある第2回から第4回の3回分がテスト範囲。理解しているかどうかをテストしたいのは,いつもそうなのだけれど,日常的な行動を行動分析学でどのように説明しているかということ。後期に入って実験的な内容も含んでいるのだけれど,結局は人間の行動を理解するための手段に過ぎない。要はそこで使われている概念を日常的な行動の説明に使えるほど理解できているかどうかが鍵である。

2007年11月6日火曜日

心理学研究法 第6回 (11月5日)


予定より少し多めにビデオを見る。アイの初期の実験の様子(コップ重ねも含めて)や今回は見ていないがローレンツの実験の様子などは,もう長い間何度も見直しているけれど,毎回それなりに楽しい。ビデオ自体というのもそうだし,学生の反応を見るのも含めて。

たまたま先週の学習心理学の授業でもそうだったのだけれど,ラットのレバー押しとか自動反応形成のビデオは,その様子自体を「とても興味深い」と感じる学生は多くない。オペラント条件づけで,オペラントの定義を理解して,しかも,私たちの日常行動が持っている「機能」がレバー押しで抽象されていることを理解できるようになるには,行動分析学の理念やその基盤としている哲学である徹底的行動主義をある程度理解してからでないと難しい。

尤も,私は学部2年生のとき,ラットのレバー押しを実験演習の実験供覧の授業の後,もういちど動物実験室に自分から出かけていって見せてもらった覚えがある。今考えると実にナイーヴだったのだけれど,ミュラーリャー,重さの弁別,要求水準etc.どんな実験でもその実験自体も楽しく感じたし,さらに,そのようにして何かが「少しでも」わかっていく過程に感心していた。そしてそうしたわかるまでの過程,わかることの喜びのようなものを,学生に伝えることができればいいと,いつも思う。リアクションペーパーに,ネズミが可愛かったとか面白かったというものが必ず1~2枚はあるのだけれど,逆に可哀想というものもそれと同数以上あるというのが実態。

授業で紹介したサイ・モンゴメリの「彼女たちの類人猿」(平凡社)は親和の図書館には入っていません。また,ほーほー堂をはじめ多くのオンライン書店で入手できず,amazonのマーケットプレイスに現時点で4冊あるだけのようです。希望があれば,吉野まで。

2007年11月4日日曜日

悲しい性



きのうきょうとお出かけ日和。きのうは仕事だったのだけれど,きょうはお昼前から六甲山にお出かけ。神戸に来る前に住んでいた大阪も嫌いではなかったけれど,事ある毎に20年間住んでいた東京に帰りたいと思っていた。けれども神戸に住んで1年半余り,東京に帰りたいと思うことはなくなってしまった。逆に学会などで東京に出かけると早く神戸に戻りたいと思うまでになってしまった。

神戸の沢山ある魅力の一つは山と海。日本三大夜景のひとつの六甲山からの眺めは,昼間に見てもすばらしい。眺めながらふと思い出したことがあった。ああ,人間というものは,欲深いものなのだ,あるいは悲しい性を持つものなのだと感じたこと。

つい先日のこと,ある学生と話していたら,彼女が住んでいるのは明石大橋が間近に望めるとあるマンションの22階。さぞやかしすばらしい眺めを毎日毎夜楽しんでいるのだろうとうらやましがったところ,彼女は一言,「飽きました」。悲しいかな,おそらく100人が見れば100人が感嘆するであろう眺めをもはや彼女は当初ほどには楽しめないとは・・・。急いで書き加えなければならないのは,これが彼女個人の問題ではなく人間一般の問題であること。つまり,パヴロフ型条件づけの馴化かオペラント条件づけの飽和化のいずれかは判然としないが,同じ刺激を繰り返し経験すると,その刺激が持っている反応(パヴロフ型で言うところの定位反応)を引き起こす力やその他の反応を強化する力(オペラントで言うところの強化力)は弱くなっていってしまうのである。本当かどうかは知らないが,○○は三日見れば・・・という常套句はこうした現象の日常例と考えることもできるのである。それではどうすればよいか。遮断化すればよいという至極単純な答えが返って来るであろう。

神戸に住んでいても,ときどき山に登り,そのすばらしい眺めを楽しむのが分相応という以前に,人間の性を考慮したやり方かと思ったことであった。

11月に入ってから,このブログにもカウンターをつけてみた。読んでくれている人が若干名はいることがわかってちょっと嬉しい。

お断り: ここに示した画像は,ビバ! 夜景というサイトのものを無断使用しています。きょう出かけたのは,まさしくこの場所でした。問題があれば,削除いたします。

2007年11月3日土曜日

嬉しい知らせ

つい先日書いた内容を今年度もまたサポートする事実が2つわかった。嬉しい知らせである。

ひとつは,親和の児童教育学科から43名が小学校の教員採用試験に現役合格したこと。卒業生を含めた26名が神戸市の小学校教員に合格しており,後者の数字は,国立大学法人の兵庫教育大学,大阪教育大学,あるいは親和より規模の大きな私立大学を凌いで大学別ではトップの数字なのだそう。

もうひとつは,大学院の心理臨床学専攻の修了生が受験していた臨床心理士の資格試験の合格者について。最終的な実数は把握できていないが,1次試験の受験者20名あまりのうち,9割以上が合格しているとのこと。まだこれから2次試験を控えているが,これも嬉しい知らせである。ちなみに,昨年度も75%程度の最終合格率となり,開設以来昨年度までの4年間で50名程度の資格取得者に加えて,今年度もその数字を順調に積み上げることができそうである。

先日も書いたが,親和のいわゆる受験のための偏差値は必ずしも高くはない。また,学費等のことも関係しているのだろうが,第一志望で入学してくる学生の数も決して多いわけではない。けれども,入学後,彼女らが真摯に取り組み,教職員がサポートした結果としてこうした数字があがってくるのは,ほんとうに嬉しい話である。手前みその話になってしまうけれど,良いこともそうでないこともきちんと対外的に知らせるのは大切なことだと思う。

2007年11月1日木曜日

心理学科の居場所


尊敬する友人(と呼びたい)のひとり,関西学院大学の中島定彦先生がこの春から在外研究員としてシドニー大学に滞在されている。今更ながら気づいたのだけれど,彼のブログ(シドニー日誌)の初期の記述の中にこんなものがあった。

シドニー大学の「School of Psychology」は「Faculty of Science」に属しているので、まとめて邦訳すれば「理学部心理学科」。他に理学部は、「生物学」「化学」「地学」「科学史科学哲学」「数学統計学」「分子生化学」「物理学」の「School」がある。このことからも心理学が自然科学の1つとして位置づけられていることがよくわかる。

これは,私が学位を取得したUCLでも似たようなものである。心理学科 Department of Psychology は,生命科学部 Faculty of Life Sciencesに所属しており,同じ学部には,解剖学・進化生物学(+医学史), 生化学・分子生物学,生物学,人間コミュニケーション科学,薬学,音声学・言語学,生理学が学科として並んでいる。ここでもやはり心理学は自然科学の一部であることがわかる。

UCLでのスーパーバイザーProf Phil Reedはウェールズ大学のスウォンジー校に異動して数年になる。現在はヨーロッパ行動分析学会の会長の重責も担いつつ,基礎と臨床の両方で活躍中。スウォンジー校の心理学科人間科学部 School of Human Sciences に属しており,応用社会科学 Applied Social Sciences, 児童学 Childhood Studies, スポーツ科学 Sports Sciencesと共に名前を連ねている。

同じ学問であってもそれぞれの国にはそれぞれの歴史があるから,同列に論じることができないことは承知の上で,せめて心理学が「文学部」にいる状況は脱したいと思っているのは私だけではないはずなのだけれど・・・。

学習心理学Ⅱ@松蔭 第5回 (11月1日)

きょうは2つの条件づけの関係。私が学生から大学院生だったころには,もう終わりかけていたけれど,今でも嫌いではない二要因説の話。Brown & Jenkins(1968), Williams & Williams (1969), Jenkins & Moore (1973)の3つと,ラットの自動反応形成をビデオで見てもらった。

ただでさえ小難しい話に加えて,ビデオが暗めなので教室を暗くしなければならす,半数近くが眠っていたように見えた。私自身は議論の展開自体を面白く感じるけれど,典型的な実験であればあるほど,多くの学生には自分の関心や興味やイメージの範囲から遠ざかってしまうのかもしれない。さて来年度はこの話はしないことになってしまうかもしれない。リアクションペーパーにもあまり好評な反応は見られず・・・(涙)。

いつものように,ここに本日分のファイルをアップしました。ビデオは今のところ上げていません。また,授業中に触れた,グーグル・スカラーは,本当に便利な検索ツールです。もちろん日本語のものも検索対象ですから,レポート作成などでも利用するとよいと思います。ふつうに検索すると,本当に玉石混淆,学術的には意味が無いどころか間違った情報を含んだページも結果として表示されますが,こちらでは,もちろんblogは含まれませんし,ある程度の水準以上のものだけが表示されます。
ちなみに,「吉野俊彦」を検索すると,普通のグーグルでは経済学者・森鷗外研究家の吉野俊彦が多く表示されるのだけれど,スカラーでの検索結果は私のものが数多くて嬉しい。

授業中にも確認しましたが,小テストは11月15日に実施します。範囲は後期の今日までのところ。但し,今日紹介した実験の内容は除きます。

2007年10月30日火曜日

心理学研究法 第5回 (10月29日)

1週遅れの研究法。研究の全体的な流れが分かってもらえればそれで十分。おそらくは日常的な疑問や学問的な啓発によって擡げる疑問に対する回答を得るために,何をどのようにするのかということが研究なのである。

授業で話していないことも当然(と言うと怒る学生がいるかもしれない)あって,ここで話すことはごく一般的な研究の流れである。ときどき「天才」もしくは「鬼才」とか何とか(どう呼ばれるかは結果に依存するわけだが)がいるのだろう,それこそ,仮説を立てるときに検証可能かどうかなど考慮しているように見えないこともある。今流行っているのかどうなのか,クオリアなんていうのは典型のように見える。

あるいはこんなこともあった。昔大学院生でネズミの実験を毎日やっていたころ,ある先輩(行動の基礎過程を動物でなくヒトの枠組みで行おうとしていた)から,「お前らはいいよな,俺たちは実験のパラダイムそのものから考えていかなければならないからな」と言われたことがあった。前述のクオリアなんていうのとは次元が異なる話だけれど,それまでのパラダイムに乗っかっていき,その枠組みの中でわかることを研究していくのでなく,枠組みが存在しないところで何かをわかっていこうとすると,まずはその枠組み自体(卑近な例だと,オペランダムに何を選択するか,何を強化子にするかといった具体的なもの)を探っていく必要がある。

ちょうど,科学研究費申請の学内締切が昨日だった。今までたぶん誰もやっていない研究パラダイムを考えたつもりなのだけれど,さてうまくいけばいいけれど。

ファイルはいつものところにアップしてあります。

2007年10月28日日曜日

手段としての入試の先にあるもの

親和でも入試が始まっている。きょうは公募制前期推薦(基礎学力試験型)の試験での試験監督とAO方式の面接を担当した。

本当にいろいろな入試形態があって,今年度入試委員の役割を仰せつかっている私にもよくわからない。どんなことにもよい面とそうでない面があって,様々な入試形態があることについてももちろんそうである。例えばきょうのAOで面接した高校生は,いろんな中からなぜAOを選んだのかと問うと,「自分が○○をやりたいと思っていることを,直接先生に伝えられるから」と答えてくれた。確かに,どんなにやる気があっても,勉強したいと思っていたとしても,学力試験には直接反映しない。一方で,やる気さえあれば基礎学力を問う必要はないのかという批判をAOは抱えてしまう危険性を持っている。あるいは,面接は苦手だがペーパーテストは得意という高校生もいるだろうし,その逆もあるだろう。要は,どんな入試形態であれ,私たちが目指す教育方針の下に行われる特定の領域についての授業をある程度以上理解する水準に達しているかどうか,それをこなす力を持っているかどうかを問うているに過ぎないのだと私は思っている。

もうひとつ入試に関して私が思うことは,いわゆる「偏差値」と大学の教育内容との関連である。学力の高い生徒が集まる大学で行われている教育と,そうでない大学での教育には,学生の水準に合わせるという側面での違いがある。けれども,そこで扱われている内容(たとえば様々な大学の心理学のカリキュラムを見比べて欲しい)についてはそれほど大きな差があるわけではない。伝え方,選ばれることば,紹介される例や研究内容など,さまざまなオプションの違いはあるが,例えば学習心理学や研究法で私が伝えたい内容は学生の学力水準の違いを強く反映しているわけではない。私の教育とは関係ないが,その結果(とあえて言いたい),親和の大学院を修了した後に受験する臨床心理士の合格率や,児童教育学科を卒業して小学校の教員になる実数は,一般に「レベルが高いと言われている」大学と十分に互角以上の実績をあげている。

大学で学ぶのは目的であり同時に将来の夢を実現するための手段でもあり得る。ある勉強をしたい,活動をしたい,人間関係を広げたいなどなどの目的そのものでもあり得るし,卒業後に教員になりたい,心理関係の仕事をしたい,大企業に勤めたい,公務員になりたいなどなどの目的を実現するための手段でもあり得る。けれども,入試というのはどのような意味からも手段でしかない。合格することの難しさが,最終的な目的を判断基準としたものであればいいが,現実はそうでない。大変な思いをして入学して得られるものと,それほど勉強しないで入学して得られるものと,必ずしも大きな違いがあるわけではないように思うのである。そんな意味では,親和は世に言う「お買い得な」大学の一つだと思うのだけれど・・・。

2007年10月24日水曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 休講 (10月25日)

明日の授業は休講。私用であるが致し方なし。今日中に掲示を見るなり連絡を受けて,明日1限にやってきて休講を知ったという学生がいないようにと思う。

ここ数年間,休講は必ず補講をするようにという原則が守られるようになった。これも数年くらい前から,半期の授業回数が13回から15回に増えた。半期で2回ということは通年で4回,つまり約1ヶ月間授業期間が増えている。逆に言えばそれだけ休みが減っていると言うことである。

私が学生生活を過ごした大学では,当時も今も,曜日に関係なく入学式は4月1日,卒業式は3月25日である。まあ大学というところは授業期間がなんと長いものかと思ったのも束の間,中がスカスカ,しかも休講もごく日常的であることに気づくまでに時間はかからなかった。それでいて授業が充実していなかったかと言われればそうでもない。今でも記憶にしっかりと残っている科目がいくつもある。尤もおもしろかった授業だけでなく,つまらなかったものも含まれるけれど。授業期間以外についても,合計すれば26週が授業期間だから半年近い休みは実家にほとんど帰ることなく,自分なりに自由にまた有意義に過ごしていたように思う。これまたよく言われることだが,きちんと出席する最近の学生に比べて当時は,たとえば前期のゴールデンウィークが過ぎるとキャンパスは風通しが良くなったりという記憶がある。大学が自主的な学びをはじめとする活動の場所であった時代から,良くも悪くも,「勉強」を教えてもらえる「学校」に変質しているのだろう。

授業は,学習心理学に限らず,自分が研究し,学んだことを学生に発表して伝える機会である。正直に言えば,その内容をすべての学生がわからなくてもいい,もっと言えば,ひとりでも理解し興味を抱いてくれる学生がいればそれでいいようにも思う。大学はそんな場所だったように思うことがある。あのころはよかったと言えば,おそらくでなく,方々からお叱りを受けてしまうのは,火を見るよりも明らかだけれど。

2007年10月23日火曜日

心理学研究法 第4回 (10月22日)

今回扱った内容を前回の続きとして,研究全体の流れと5つの研究法のファイルの続きを,ここにアップしました。なお,今回配布したプリント(リサーチクエスチョン)は来週扱うことになります。つまり5週目にしてシラバス1週遅れということ。

シラバス通りであれば,リサーチクエスチョンに入る予定が,前回のフィードバックと復習,それに前回積み残した内容で時間切れ。フィードバックや復習は自分で積極的に学習を進める学生には不満に感じやすいことだろう。シラバス通りに進めることは基本的な契約を実行する責任の一つだが,学生の理解と対応させる必要があるという主張も,日本では妥当に思える。要は学生の理解度を予測した上でシラバスを作成していれば問題はないのだけれど。

いかなる大学でも学科でも,カリキュラムの編成は非常に重要な課題の一つである。何をどのような順序で配置すれば,学科が全体として目標としているどのような学生を送り出したいか,また4年間の学習の成果を最もよく上げられるかの具体的な方策に関わっている。

この言い方は昔ながらのものなのだろう。大人になればわかるとか,こんなことをやって何の役に立つのか,今我慢すれば将来的にいいことがあるからなどなど。幸いなことに(と書けば叱られてしまうかもしれないが,これは本心),再履修の学生,とりわけ卒業論文に取りかかる学生には,研究法がなぜ重要なのかをイメージしてもらいやすい。2回生ではまだその重要性について思いが至りにくいのだろう。研究法に限らず,もう少しきちんとしておけばよかったと後悔するのは古今東西に遍在している。だからといって,4回生の春学期で研究法をという話には,カリキュラムを考えるとなりにくい。

前回と同じ結論になってしまうのだが,より学生にイメージしやすい,関心を惹きやすい授業内容にしていくことが最善の方策なのだろう。尤も,具体的にどうすればよいのかについては,具体的な例を挙げるなどする,簡単な実習を交える程度しか思いつかないのが残念なのだけれど・・・。

2007年10月22日月曜日

子どもの心をしずめる24の方法

新聞各紙の日曜版は図書案内にページを割いている。きょうの図書欄にはそれほどめぼしいものがなかったものの,3点面白そうな広告と記事を見つけた。

ひとつは,北大路の心理学と科学についてのもの。臨床心理学における科学と疑似科学,そしてロールシャッハテストは間違っている: 科学からの異議他2冊。いずれも,臨床場面での実践家としての活動と一般化を問題とし,科学としての信頼性や妥当性を重視する科学者としての活動とのギャップを扱っていると考えればよいのだろう。私が授業で扱う日常知(経験知と呼んでもよいのだが)と,科学的にわかっていくこととのギャップは時にいかんともしがたい。けれども,少なくとも臨床場面で活動(しようと)する人たちが,誰かの主張を無批判に受け入れてしまうことだけは避けたい。これら2冊は何かを教えてもらうのでなく,自分で論理的に考えて,咀嚼する練習にもなるかもしれない。

日常知と科学知とは,理想的にはやがて重なっていくと考えたいが,この稿のタイトルに掲げた本はそんな好例のひとつかもしれない。子どもの心をしずめる24の方法もきょうの朝日で記事として紹介されている。目次だけを挙げてみると,

自分の気持ちをしずめる方法の取り入れ方
  お手本を見せましょう/ いくつかのステップにわけて教えましょう/ 取り入れ方のヒント/ 子どもに合った方法の選び方/ いつでもどこでも使える方法と感情をためこまないために日課として行なう方法
気持ちをしずめる24の方法
  からだを使う/ 聞く・話す/ 見る/ ものをつくる/ 自分をなぐさめる/ ユーモラスな方法

この本の著者Elizabeth Craryは,小学校の教師を経て,親や教師,子どもを支援する活動を25年以上続けている。M.S.とあるから,おそらく修士修了した後に現場で経験を重ねてきた人なのだろう(M.S.はこれまたたぶんだけれど,Master of Scienceのはず,ちなみにイギリスだとMSc)。まだ実際に本を手にしたわけではないが,「気持ち」のコントロールが,「気持ち」に集中するのでなく,上記のような行動によって行われていると考えられているように見える。

行動分析学が誤解されるひとつに,行動だけを見て「気持ちや感情」を考えていないというものがあるが,ここで紹介されている内容は,行動分析的な考えとおそらくうまく合致しているように見える。うまく合致している考えというのは,「気持ちや感情」は状態であり,その状態は私たちを取り巻く環境や,自分自身が行った行動とその結果によってもたらされるというものである。社会的スキルの獲得の重要性を思う。

さて,もう1冊は新書。松本聡子という若い人が,文春新書に書いた
あなたは人にどう見られているか。東京工業大学で大人気の授業をまとめたものらしく,面白そうに見える。社会心理学の知見をベースに書かれているとあるから,タイトルは一見怪しげだが内容とすればきちんとしたものなのだろう。おそらく,人からどのように見られているのかは,他人をどのように見るのかと同じくらい,社会的な動物である人間にとっては重要な関心事であろう。一般的に人間関係をうまく築くことがうまくないと言われがちな「今どきの若者」たちに取ってみると,そのような内容の講義は願ったり叶ったりなのだろう。これを出発点として,ただそこで呈示されるスキルだけでなく,研究の方法論を理解するところへ発展させていけば,さらに,研究内容をそのような身近な直接的なテーマから人間の行動に関するより基礎的なテーマへと発展させれば言うことはない。

なお,ここでの書籍のリンクはできるだけ,本やタウン・ほーほー堂のものを使っている。親和の生協と提携していて大学で注文したものを受け取れて便利だから。

2007年10月18日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第4回 (10月18日)

どうやらこちらもリンクが適切でなかったようです。ここをクリックして,学習心理学Ⅱのページから必要なファイルをダウンロードしてください。

きょうは,阻止の随伴性の話。阻止preventionのことはあまり書かれていないことが多い。経験的には,強化の例を日常生活から挙げてくださいというと,反応強化子随伴性や三項強化随伴性を越えて,阻止の随伴性でしかうまく説明できないような例を挙げる学生が少なからずいる。能動回避だけでなく,受動回避やルール支配などのトピックを理解することで行動分析学の説明力の高さを,より実感する学生は少なくないと信じている。阻止の随伴性の理解はその基盤となるもののように私は感じているのだが・・・。

岡山大学の長谷川先生が,この阻止の随伴性について論文を書かれていたり,研究されている。ここではあえてリンクを貼らずに,紹介に留めるが,「随伴性」という行動分析学の中核の概念がスキナーによってどのように導入され,その後展開していったか,さらに,阻止という随伴性の概念がどのように導入されたかなど,とても興味深い議論が成されている。

リアクションペーパーに,日常例を考えて書いてもらった。詳細は次週紹介するが,誤解している学生もいたが,同時にいくつもの興味深いものがあって,また今日も一安心。

前期の授業評価が返却された。これについてはまた時を改めて。

2007年10月16日火曜日

実験協力者募集の件

心理学研究法でアナウンスした,実験協力者募集について,より詳細を知りたい学生は,吉野宛にメールを送信,または研究室を訪ねてください。
実験内容も身近なもので,特別に難しいことを要求されるわけではありませんし,ペイも悪くないと思います。さらに,心理学のきちんとした実験や調査に参加することは,研究法そのものをよりよく理解する助けになります。

心理学研究法 第3回 (10月15日)

前回のファイル設定に問題があったようです。ここをクリックして,該当するファイルをダウンロードして下さい。

今回の授業は全く不出来。リアクションペーパーにも多数あったとおり,スライドと配付資料との対応が明確はありませんでした。以下に,授業運営について思っていることを書いてみます。

ハンドアウト(配付資料)をプリントで配ることについては,いくつか考えるところがある。
まず学生のノートを取るという行為について。自分にとって効果的にノートを取ることが得意でない学生が多いように見える。例えば,講義を聴きながらペンを動かす学生はごく少数のように見える。その一方で,スライドが新しいものになると,これはノートに取るまでもないですと話しても,全部書き取ろうとする学生は少なくない。おそらく板書もそうなのだろう。私は板書することはほとんどないが,教員が板書することをそのまま書き写すということをこれまで経験的に行ってきたのかもしれない。
次に,こちら側の対応について。私の授業のスタイルは,現在パワーポイントを使ってのプレゼンテーションがほとんどである。話が脱線することもままあるが,基本的に話す内容が,聴覚だけでなく視覚的にも情報として提示されるようにしている。換言すれば,板書する内容よりも遙かに多くのスライドが呈示されることになる。そのうち,板書する,つまり学生がノートを取る程度の内容について(私が重要であり,きちんと理解して欲しい内容について)ハンドアウトを就くって配布している。呈示されているスライドがハンドアウトにないと「不安」なのかもしれないし,どこを話しているのかわからない(つまり呈示されているスライドがどこかにあるはずだと思って探しているうちに授業が進んでいってしまう)ということがしょうじているのだろう,何人かのリアクションペーパーには,スライドに番号を付けて欲しいというコメントがあった。

100人に近い学生が履修してると,すべての学生の要求に満足するような授業運営は難しい。冷房が効きすぎているコメントに対応して,次の授業で弱めれば,今度は何人かが効いていなくて暑かったというコメントが返ってくるだろう。

そのような環境設定や学生同士の私語を教員がコントロールしなければならないのかどうか私にはよくわからない。私に出来ることはせいぜい,私語がうるさかったというコメントが少なくなかったという程度に思える。最後手段として退出させる,それでもダメなら座席指定をということくらいなのだろう。行動分析の立場からは,授業に集中して聴くという行動を強化することが最善,私語をする学生に注意するという弱化(これはほとんど効果がない)か次善,そして授業参加を拒否するという負の弱化,そして物理的な拘束や状況設定(座席指定など)が最後の手段として位置づけられる。残念ながら私語という行動を抑制する効果は一般的にはこの順番に強くなるように感じている。教員の立場からすれば,集中して聴くような内容の授業を進めることが最も望ましいのは言うまでもないのだが,さて,100人のすべてに興味深い授業というのが,例えば研究法のような授業で可能なのかどうなのか。

様々な議論が繰り返されて,また教員はファカルティ・ディベロプメント,学生からの授業評価なども含めて,すこしでもよい授業(何をもって「よい授業」と呼ぶのかについても議論はある)を提供できるように努力しなければならないのは確かなことである。ただ,それを実現するために,学生側の参加がなければならないのも確かなのだけれど・・・。

2007年10月11日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第3回 (10月11日)

今年度春から学習心理学Ⅰ・Ⅱと通年で担当させていただいている授業。自宅から近いだけでなく,たまたま現在親和で学習心理学の授業がないだけに,やりがいのある授業である。当初の予定では,前期に2つの条件づけの基礎過程を終えて,後期は応用編だったのだけれど,数回分遅れて前々回のオリエンテーション(前期試験のフィードバックを含む),前回の三項強化随伴性に続いてきょうは刺激性制御。

これまでできるだけ,基礎実験の話を避けてきた。人間の日常的な行動を例に挙げて,学習心理学が私たちの身近なことを説明する学問であることを伝えようと考えていたためである。こうした授業の進め方については議論があるだろうが,これについては別のところ(もうじき出版される)でまとめているで,ここでは省略。

それでも,刺激性制御の話をするなら,継時弁別,同時弁別,行動対比,無誤弁別学習,般化と概念などといった内容は不可欠である。もちろんこれらについても,日常例で進めることは可能だったのかもしれないが,きょうはハトの実験例で授業を進めてみた。

これまでのスタンスと大きな隔たりがあったためなのだろうが,難しかったというリアクションペーパーが多かった。さらには,学習心理学が今受けている授業の中で一番難しいという記述もあった。日頃から,簡単なことを難しく説明するのが得意であると半ば自虐的に話してはいるものの,こうした反応はやはり厳しい。幸い来週からはふたたび日常例だけで進められそうなテーマが続くのだけれど。

しかし,学習心理学は難しいというイメージを植え付けてしまっていることについては反省しきりである。さりとて,どうすれぱよいのかについても十分に手だてが思いつかないのも現状なのだけれど・・・。

それでも少し楽観的でいられるのは,前回の弁別行動のところで,日常例を書くようにお願いしたところ,たくさんの面白い例を書いてくれたこと。言葉として十分に理解して誰かに説明することができなくても,これだけ面白い,しかも妥当な例が挙がるというのはそれなり以上に理解している証拠と思えるためである。ちなみに,そうした例は,きょうの授業でフィードバックした。フィードバックのファイルはここから
きょうの授業で用いたパワーポイントのファイルはここからダウンロードできます。

2007年10月5日金曜日

職業選択の自由の不自由または自由意志


きょうは出張。いつ頃から始まったのか,高等学校での模擬授業や進路相談。親和にも結構頻繁に業者主催のセミナーや高等学校からの模擬授業の依頼がくる。学科の教員で分担はするのだが,高校生と話すのも私はそれほど嫌いでない。  

きょうは進路相談だった。高校1年生,2年生がさまざまな大学,短大,専門学校から様々な学科,専門についての説明を受けるというもの。多いところには10数名固まっていたようだが,心理には残念ながら1年生が2人,2年生が4人とこぢんまりした集まりだった。

そもそもこのような説明会が必要な理由は何なのだろうと考えてみたことがある。職業選択の自由は憲法第22条で定められている。けれども,第24条の両性の合意にのみ基づくと規定した婚姻と同様に,家庭の事情,親の干渉などなどの理由によって,絵に描いた餅であるように見えなくもない。もちろん,現実でなく理想を掲げたものとして,つまり国の方向性を示すものが憲法であれば,それで一向に不都合はない。

今の高校生が,そうした親の意図や事情を離れて,全く自由に決めてよいと言われて,さてどの程度の高校生が「それでは」と明確な希望を自らの意志によって決められるのだろう。大学生でさえ,自分が何をしたいのかわからない学生が少なくないというのに。

行動分析学は,話が大仰になってしまうが,いわゆる「自由意志」を仮定しない。つまり決定論に立っている。スキナー(1971)の自由と尊厳を越えて(上の画像はクリックすると拡大されます)は,それ故に物議を醸した。自由意志を認めたいという「気持ち」は十分に理解できる。様々なものから自由でありたいと思うからこそ,人には自由意志があると信じたい。逆に言えば自由でないからこそ自由であると信じたい。白石冬美曰く「たがの中の幸せ」。とりわけ創造論を信じたい立場からは人と人以外の動物は峻別されねばならず,故にスキナーは許し難いのだろう。

職業に限ったことではないが,非常にたくさんの選択肢が存在する。すべての職業を知悉して,その中から自分の適性,志向,将来性,何を得たいかなどといった要因を考慮して,自由意志によって選択するなどということは到底出来ない相談である。今ここにあるもの,その中で自分が知っているもの,自分の能力やその職業に就くために必要な労力,お金などなど,多くの制約によってごく少数の選択肢に限られる。その中から選ぶのが「自由意志」であると言えばそうなのだろうが。

今の高校生や大学生が感じている戸惑いは自由度が高い,つまり選択肢が多すぎることが一因のように思える。あらかじめ親の仕事を継ぐと決められていれば,あるいは,選択肢としてAかBしかないようにな状況であれば,特別悩む必要もない。選択肢が多いからこそ,自由に選択してよいからこそ感じる不自由さ,そのような逆説的な状況にあることが,きょうのようなセミナーを必要とする理由のひとつなのではと思うのである。

きょうのオーディエンスは小さかったが,1年生も2年生もそれぞれそれなりに楽しんでもらえていたら嬉しいのだけれど。そして,心理学を自分の選択肢の一つとして具体的に考えてくれればいいのだけれど。

Skinner (1971). Beyond Freedom and Dignity. Indianapolis: Hackett Pub.

2007年10月3日水曜日

就職活動と卒業論文 ps

私たちが当たり前だと思ってやっていることの多くは,世界を見渡すと当たり前でない。この4月入学についてもそうである。たとえばここに詳しい記事がある。

さて,とりあえず文科省が自由化といっても「はい,そうですね」とはならないのだろうが,少なくとも犠牲となっているのは学生ひとりひとりである。彼/女らの利益が最大限になるように私たちは考えなければならないということだけは確か。案外どこかの大学が先走って,学生募集によい効果が現れると,それこそ「右にならえ」となりそうではあるけれど・・・。

就職活動と卒業論文

私はいわゆる就職活動をしたことがない。もちろん,大学に就職するに当たっては,いくつもいくつもいくつもいくつも応募して,その回数マイナス1回失敗してきた。
ここではもちろんそんな話でなく,最近話題になった文部科学省による、「原則4月」と定めている大学の入学時期について、年内にも完全に自由化されたことと関連する話である。

4回生のゼミは運営が難しい。就職活動と重なるためである。いきおい学生ひとりひとりと授業時間外に会うことになる。

私は原則として9月入学・9月卒業に賛成である。高校3年生の3学期が授業が成立しにくい以上に,大学4回生の授業は成立しにくい。下手をすると3回生の後半から就職活動に気持ちが移ってしまう学生も少なくないだろう。9月入学・9月卒業(実際はおそらく6月卒業になるだろうが)のシステムにすれば,大学入試はすべて4月から6月の間に実施し,大学生の就職活動は翌年の4月入社に向けて卒業後から始めればよい。少なくともきちんとした授業を高校でも大学でもしようとすればこれで問題はなくなる。

これまた最近のニュースに,受験勉強を全くしたことがない大学生が相当数いるという話があった。親和でもそうだけれど,様々な入試形態が採られるようになったこともその一因だろう。もし高校を卒業するまで行き先としての大学が決まっていなければ,おちおち遊んでばかりはいられない。4月から始まる試験に向けて今よりはよほど勉強する高校生(卒業生)は増えるのではないだろうか。

もちろん,この考えにも問題がないわけではない。格差が広がる一方であるという社会情勢の中で(実際,年収1,000万円以上の割合と200万円以下の割合が増えているという),大学の学費を支払うのは,多くの家庭にとって決して楽なことではない。その上,高卒後半年間,大卒後9ヶ月もの間,文字通り「無所属」で過ごすというのは,家計への影響だけでなく,様々な問題を引き起こす危険性も考えられる。空白の1年(プラス3ヶ月?)の過ごし方は,前首相がのんびりと「ボランティアでもさせたらいい」というわけにはいかないのだろう。

それでも,きょうもまた4回生のゼミが成立しなかったことを思うと,また学生たちの真面目な就職にかける姿勢と卒業研究との板挟みになっている状況を思うと,決してこのままでいいとは思えないのも事実なのである。

2007年10月2日火曜日

心理学研究法 第2回 (10月1日)

心理学研究法の2回目。シラバス通りに心理学と科学について。当日使用したパワーポイントのスライドはここを右クリックしてダウンロードして下さい。ファイル名は適当に変更して下さい。

研究法は最も大学らしい授業のひとつであり,だからこそ最も面白い科目のひとつだと信じています。研究すること,つまり何かが自分の手で「きちんと」わかることのおもしろさを伝えられればよいのですが・・・。もちろん,将来的に大学院に進学し,研究者や臨床心理士を目指す人だけにでなく。

授業で扱った科学の背景については,少し古い本ですが,主に,村上陽一郎「文明の中の科学」(1994, 青土社)に基づいています。図書館にも配架されていますので一読を勧めます。

再開

夏の太陽もようやく南下したようで,ようやく秋らしい空気になってきた神戸。

1年半前に同じ名前で始めたブログはほんの数回で閉じてしまった。
今回は,実用的な目的を兼ねての再開。今度はちゃんと続きますように。

ちなみに本務校の神戸親和女子大学のスクールカラー?は緑とオレンジ。
ブログにもこの色を選んでみました。