2007年10月30日火曜日

心理学研究法 第5回 (10月29日)

1週遅れの研究法。研究の全体的な流れが分かってもらえればそれで十分。おそらくは日常的な疑問や学問的な啓発によって擡げる疑問に対する回答を得るために,何をどのようにするのかということが研究なのである。

授業で話していないことも当然(と言うと怒る学生がいるかもしれない)あって,ここで話すことはごく一般的な研究の流れである。ときどき「天才」もしくは「鬼才」とか何とか(どう呼ばれるかは結果に依存するわけだが)がいるのだろう,それこそ,仮説を立てるときに検証可能かどうかなど考慮しているように見えないこともある。今流行っているのかどうなのか,クオリアなんていうのは典型のように見える。

あるいはこんなこともあった。昔大学院生でネズミの実験を毎日やっていたころ,ある先輩(行動の基礎過程を動物でなくヒトの枠組みで行おうとしていた)から,「お前らはいいよな,俺たちは実験のパラダイムそのものから考えていかなければならないからな」と言われたことがあった。前述のクオリアなんていうのとは次元が異なる話だけれど,それまでのパラダイムに乗っかっていき,その枠組みの中でわかることを研究していくのでなく,枠組みが存在しないところで何かをわかっていこうとすると,まずはその枠組み自体(卑近な例だと,オペランダムに何を選択するか,何を強化子にするかといった具体的なもの)を探っていく必要がある。

ちょうど,科学研究費申請の学内締切が昨日だった。今までたぶん誰もやっていない研究パラダイムを考えたつもりなのだけれど,さてうまくいけばいいけれど。

ファイルはいつものところにアップしてあります。

2007年10月28日日曜日

手段としての入試の先にあるもの

親和でも入試が始まっている。きょうは公募制前期推薦(基礎学力試験型)の試験での試験監督とAO方式の面接を担当した。

本当にいろいろな入試形態があって,今年度入試委員の役割を仰せつかっている私にもよくわからない。どんなことにもよい面とそうでない面があって,様々な入試形態があることについてももちろんそうである。例えばきょうのAOで面接した高校生は,いろんな中からなぜAOを選んだのかと問うと,「自分が○○をやりたいと思っていることを,直接先生に伝えられるから」と答えてくれた。確かに,どんなにやる気があっても,勉強したいと思っていたとしても,学力試験には直接反映しない。一方で,やる気さえあれば基礎学力を問う必要はないのかという批判をAOは抱えてしまう危険性を持っている。あるいは,面接は苦手だがペーパーテストは得意という高校生もいるだろうし,その逆もあるだろう。要は,どんな入試形態であれ,私たちが目指す教育方針の下に行われる特定の領域についての授業をある程度以上理解する水準に達しているかどうか,それをこなす力を持っているかどうかを問うているに過ぎないのだと私は思っている。

もうひとつ入試に関して私が思うことは,いわゆる「偏差値」と大学の教育内容との関連である。学力の高い生徒が集まる大学で行われている教育と,そうでない大学での教育には,学生の水準に合わせるという側面での違いがある。けれども,そこで扱われている内容(たとえば様々な大学の心理学のカリキュラムを見比べて欲しい)についてはそれほど大きな差があるわけではない。伝え方,選ばれることば,紹介される例や研究内容など,さまざまなオプションの違いはあるが,例えば学習心理学や研究法で私が伝えたい内容は学生の学力水準の違いを強く反映しているわけではない。私の教育とは関係ないが,その結果(とあえて言いたい),親和の大学院を修了した後に受験する臨床心理士の合格率や,児童教育学科を卒業して小学校の教員になる実数は,一般に「レベルが高いと言われている」大学と十分に互角以上の実績をあげている。

大学で学ぶのは目的であり同時に将来の夢を実現するための手段でもあり得る。ある勉強をしたい,活動をしたい,人間関係を広げたいなどなどの目的そのものでもあり得るし,卒業後に教員になりたい,心理関係の仕事をしたい,大企業に勤めたい,公務員になりたいなどなどの目的を実現するための手段でもあり得る。けれども,入試というのはどのような意味からも手段でしかない。合格することの難しさが,最終的な目的を判断基準としたものであればいいが,現実はそうでない。大変な思いをして入学して得られるものと,それほど勉強しないで入学して得られるものと,必ずしも大きな違いがあるわけではないように思うのである。そんな意味では,親和は世に言う「お買い得な」大学の一つだと思うのだけれど・・・。

2007年10月24日水曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 休講 (10月25日)

明日の授業は休講。私用であるが致し方なし。今日中に掲示を見るなり連絡を受けて,明日1限にやってきて休講を知ったという学生がいないようにと思う。

ここ数年間,休講は必ず補講をするようにという原則が守られるようになった。これも数年くらい前から,半期の授業回数が13回から15回に増えた。半期で2回ということは通年で4回,つまり約1ヶ月間授業期間が増えている。逆に言えばそれだけ休みが減っていると言うことである。

私が学生生活を過ごした大学では,当時も今も,曜日に関係なく入学式は4月1日,卒業式は3月25日である。まあ大学というところは授業期間がなんと長いものかと思ったのも束の間,中がスカスカ,しかも休講もごく日常的であることに気づくまでに時間はかからなかった。それでいて授業が充実していなかったかと言われればそうでもない。今でも記憶にしっかりと残っている科目がいくつもある。尤もおもしろかった授業だけでなく,つまらなかったものも含まれるけれど。授業期間以外についても,合計すれば26週が授業期間だから半年近い休みは実家にほとんど帰ることなく,自分なりに自由にまた有意義に過ごしていたように思う。これまたよく言われることだが,きちんと出席する最近の学生に比べて当時は,たとえば前期のゴールデンウィークが過ぎるとキャンパスは風通しが良くなったりという記憶がある。大学が自主的な学びをはじめとする活動の場所であった時代から,良くも悪くも,「勉強」を教えてもらえる「学校」に変質しているのだろう。

授業は,学習心理学に限らず,自分が研究し,学んだことを学生に発表して伝える機会である。正直に言えば,その内容をすべての学生がわからなくてもいい,もっと言えば,ひとりでも理解し興味を抱いてくれる学生がいればそれでいいようにも思う。大学はそんな場所だったように思うことがある。あのころはよかったと言えば,おそらくでなく,方々からお叱りを受けてしまうのは,火を見るよりも明らかだけれど。

2007年10月23日火曜日

心理学研究法 第4回 (10月22日)

今回扱った内容を前回の続きとして,研究全体の流れと5つの研究法のファイルの続きを,ここにアップしました。なお,今回配布したプリント(リサーチクエスチョン)は来週扱うことになります。つまり5週目にしてシラバス1週遅れということ。

シラバス通りであれば,リサーチクエスチョンに入る予定が,前回のフィードバックと復習,それに前回積み残した内容で時間切れ。フィードバックや復習は自分で積極的に学習を進める学生には不満に感じやすいことだろう。シラバス通りに進めることは基本的な契約を実行する責任の一つだが,学生の理解と対応させる必要があるという主張も,日本では妥当に思える。要は学生の理解度を予測した上でシラバスを作成していれば問題はないのだけれど。

いかなる大学でも学科でも,カリキュラムの編成は非常に重要な課題の一つである。何をどのような順序で配置すれば,学科が全体として目標としているどのような学生を送り出したいか,また4年間の学習の成果を最もよく上げられるかの具体的な方策に関わっている。

この言い方は昔ながらのものなのだろう。大人になればわかるとか,こんなことをやって何の役に立つのか,今我慢すれば将来的にいいことがあるからなどなど。幸いなことに(と書けば叱られてしまうかもしれないが,これは本心),再履修の学生,とりわけ卒業論文に取りかかる学生には,研究法がなぜ重要なのかをイメージしてもらいやすい。2回生ではまだその重要性について思いが至りにくいのだろう。研究法に限らず,もう少しきちんとしておけばよかったと後悔するのは古今東西に遍在している。だからといって,4回生の春学期で研究法をという話には,カリキュラムを考えるとなりにくい。

前回と同じ結論になってしまうのだが,より学生にイメージしやすい,関心を惹きやすい授業内容にしていくことが最善の方策なのだろう。尤も,具体的にどうすればよいのかについては,具体的な例を挙げるなどする,簡単な実習を交える程度しか思いつかないのが残念なのだけれど・・・。

2007年10月22日月曜日

子どもの心をしずめる24の方法

新聞各紙の日曜版は図書案内にページを割いている。きょうの図書欄にはそれほどめぼしいものがなかったものの,3点面白そうな広告と記事を見つけた。

ひとつは,北大路の心理学と科学についてのもの。臨床心理学における科学と疑似科学,そしてロールシャッハテストは間違っている: 科学からの異議他2冊。いずれも,臨床場面での実践家としての活動と一般化を問題とし,科学としての信頼性や妥当性を重視する科学者としての活動とのギャップを扱っていると考えればよいのだろう。私が授業で扱う日常知(経験知と呼んでもよいのだが)と,科学的にわかっていくこととのギャップは時にいかんともしがたい。けれども,少なくとも臨床場面で活動(しようと)する人たちが,誰かの主張を無批判に受け入れてしまうことだけは避けたい。これら2冊は何かを教えてもらうのでなく,自分で論理的に考えて,咀嚼する練習にもなるかもしれない。

日常知と科学知とは,理想的にはやがて重なっていくと考えたいが,この稿のタイトルに掲げた本はそんな好例のひとつかもしれない。子どもの心をしずめる24の方法もきょうの朝日で記事として紹介されている。目次だけを挙げてみると,

自分の気持ちをしずめる方法の取り入れ方
  お手本を見せましょう/ いくつかのステップにわけて教えましょう/ 取り入れ方のヒント/ 子どもに合った方法の選び方/ いつでもどこでも使える方法と感情をためこまないために日課として行なう方法
気持ちをしずめる24の方法
  からだを使う/ 聞く・話す/ 見る/ ものをつくる/ 自分をなぐさめる/ ユーモラスな方法

この本の著者Elizabeth Craryは,小学校の教師を経て,親や教師,子どもを支援する活動を25年以上続けている。M.S.とあるから,おそらく修士修了した後に現場で経験を重ねてきた人なのだろう(M.S.はこれまたたぶんだけれど,Master of Scienceのはず,ちなみにイギリスだとMSc)。まだ実際に本を手にしたわけではないが,「気持ち」のコントロールが,「気持ち」に集中するのでなく,上記のような行動によって行われていると考えられているように見える。

行動分析学が誤解されるひとつに,行動だけを見て「気持ちや感情」を考えていないというものがあるが,ここで紹介されている内容は,行動分析的な考えとおそらくうまく合致しているように見える。うまく合致している考えというのは,「気持ちや感情」は状態であり,その状態は私たちを取り巻く環境や,自分自身が行った行動とその結果によってもたらされるというものである。社会的スキルの獲得の重要性を思う。

さて,もう1冊は新書。松本聡子という若い人が,文春新書に書いた
あなたは人にどう見られているか。東京工業大学で大人気の授業をまとめたものらしく,面白そうに見える。社会心理学の知見をベースに書かれているとあるから,タイトルは一見怪しげだが内容とすればきちんとしたものなのだろう。おそらく,人からどのように見られているのかは,他人をどのように見るのかと同じくらい,社会的な動物である人間にとっては重要な関心事であろう。一般的に人間関係をうまく築くことがうまくないと言われがちな「今どきの若者」たちに取ってみると,そのような内容の講義は願ったり叶ったりなのだろう。これを出発点として,ただそこで呈示されるスキルだけでなく,研究の方法論を理解するところへ発展させていけば,さらに,研究内容をそのような身近な直接的なテーマから人間の行動に関するより基礎的なテーマへと発展させれば言うことはない。

なお,ここでの書籍のリンクはできるだけ,本やタウン・ほーほー堂のものを使っている。親和の生協と提携していて大学で注文したものを受け取れて便利だから。

2007年10月18日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第4回 (10月18日)

どうやらこちらもリンクが適切でなかったようです。ここをクリックして,学習心理学Ⅱのページから必要なファイルをダウンロードしてください。

きょうは,阻止の随伴性の話。阻止preventionのことはあまり書かれていないことが多い。経験的には,強化の例を日常生活から挙げてくださいというと,反応強化子随伴性や三項強化随伴性を越えて,阻止の随伴性でしかうまく説明できないような例を挙げる学生が少なからずいる。能動回避だけでなく,受動回避やルール支配などのトピックを理解することで行動分析学の説明力の高さを,より実感する学生は少なくないと信じている。阻止の随伴性の理解はその基盤となるもののように私は感じているのだが・・・。

岡山大学の長谷川先生が,この阻止の随伴性について論文を書かれていたり,研究されている。ここではあえてリンクを貼らずに,紹介に留めるが,「随伴性」という行動分析学の中核の概念がスキナーによってどのように導入され,その後展開していったか,さらに,阻止という随伴性の概念がどのように導入されたかなど,とても興味深い議論が成されている。

リアクションペーパーに,日常例を考えて書いてもらった。詳細は次週紹介するが,誤解している学生もいたが,同時にいくつもの興味深いものがあって,また今日も一安心。

前期の授業評価が返却された。これについてはまた時を改めて。

2007年10月16日火曜日

実験協力者募集の件

心理学研究法でアナウンスした,実験協力者募集について,より詳細を知りたい学生は,吉野宛にメールを送信,または研究室を訪ねてください。
実験内容も身近なもので,特別に難しいことを要求されるわけではありませんし,ペイも悪くないと思います。さらに,心理学のきちんとした実験や調査に参加することは,研究法そのものをよりよく理解する助けになります。

心理学研究法 第3回 (10月15日)

前回のファイル設定に問題があったようです。ここをクリックして,該当するファイルをダウンロードして下さい。

今回の授業は全く不出来。リアクションペーパーにも多数あったとおり,スライドと配付資料との対応が明確はありませんでした。以下に,授業運営について思っていることを書いてみます。

ハンドアウト(配付資料)をプリントで配ることについては,いくつか考えるところがある。
まず学生のノートを取るという行為について。自分にとって効果的にノートを取ることが得意でない学生が多いように見える。例えば,講義を聴きながらペンを動かす学生はごく少数のように見える。その一方で,スライドが新しいものになると,これはノートに取るまでもないですと話しても,全部書き取ろうとする学生は少なくない。おそらく板書もそうなのだろう。私は板書することはほとんどないが,教員が板書することをそのまま書き写すということをこれまで経験的に行ってきたのかもしれない。
次に,こちら側の対応について。私の授業のスタイルは,現在パワーポイントを使ってのプレゼンテーションがほとんどである。話が脱線することもままあるが,基本的に話す内容が,聴覚だけでなく視覚的にも情報として提示されるようにしている。換言すれば,板書する内容よりも遙かに多くのスライドが呈示されることになる。そのうち,板書する,つまり学生がノートを取る程度の内容について(私が重要であり,きちんと理解して欲しい内容について)ハンドアウトを就くって配布している。呈示されているスライドがハンドアウトにないと「不安」なのかもしれないし,どこを話しているのかわからない(つまり呈示されているスライドがどこかにあるはずだと思って探しているうちに授業が進んでいってしまう)ということがしょうじているのだろう,何人かのリアクションペーパーには,スライドに番号を付けて欲しいというコメントがあった。

100人に近い学生が履修してると,すべての学生の要求に満足するような授業運営は難しい。冷房が効きすぎているコメントに対応して,次の授業で弱めれば,今度は何人かが効いていなくて暑かったというコメントが返ってくるだろう。

そのような環境設定や学生同士の私語を教員がコントロールしなければならないのかどうか私にはよくわからない。私に出来ることはせいぜい,私語がうるさかったというコメントが少なくなかったという程度に思える。最後手段として退出させる,それでもダメなら座席指定をということくらいなのだろう。行動分析の立場からは,授業に集中して聴くという行動を強化することが最善,私語をする学生に注意するという弱化(これはほとんど効果がない)か次善,そして授業参加を拒否するという負の弱化,そして物理的な拘束や状況設定(座席指定など)が最後の手段として位置づけられる。残念ながら私語という行動を抑制する効果は一般的にはこの順番に強くなるように感じている。教員の立場からすれば,集中して聴くような内容の授業を進めることが最も望ましいのは言うまでもないのだが,さて,100人のすべてに興味深い授業というのが,例えば研究法のような授業で可能なのかどうなのか。

様々な議論が繰り返されて,また教員はファカルティ・ディベロプメント,学生からの授業評価なども含めて,すこしでもよい授業(何をもって「よい授業」と呼ぶのかについても議論はある)を提供できるように努力しなければならないのは確かなことである。ただ,それを実現するために,学生側の参加がなければならないのも確かなのだけれど・・・。

2007年10月11日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第3回 (10月11日)

今年度春から学習心理学Ⅰ・Ⅱと通年で担当させていただいている授業。自宅から近いだけでなく,たまたま現在親和で学習心理学の授業がないだけに,やりがいのある授業である。当初の予定では,前期に2つの条件づけの基礎過程を終えて,後期は応用編だったのだけれど,数回分遅れて前々回のオリエンテーション(前期試験のフィードバックを含む),前回の三項強化随伴性に続いてきょうは刺激性制御。

これまでできるだけ,基礎実験の話を避けてきた。人間の日常的な行動を例に挙げて,学習心理学が私たちの身近なことを説明する学問であることを伝えようと考えていたためである。こうした授業の進め方については議論があるだろうが,これについては別のところ(もうじき出版される)でまとめているで,ここでは省略。

それでも,刺激性制御の話をするなら,継時弁別,同時弁別,行動対比,無誤弁別学習,般化と概念などといった内容は不可欠である。もちろんこれらについても,日常例で進めることは可能だったのかもしれないが,きょうはハトの実験例で授業を進めてみた。

これまでのスタンスと大きな隔たりがあったためなのだろうが,難しかったというリアクションペーパーが多かった。さらには,学習心理学が今受けている授業の中で一番難しいという記述もあった。日頃から,簡単なことを難しく説明するのが得意であると半ば自虐的に話してはいるものの,こうした反応はやはり厳しい。幸い来週からはふたたび日常例だけで進められそうなテーマが続くのだけれど。

しかし,学習心理学は難しいというイメージを植え付けてしまっていることについては反省しきりである。さりとて,どうすれぱよいのかについても十分に手だてが思いつかないのも現状なのだけれど・・・。

それでも少し楽観的でいられるのは,前回の弁別行動のところで,日常例を書くようにお願いしたところ,たくさんの面白い例を書いてくれたこと。言葉として十分に理解して誰かに説明することができなくても,これだけ面白い,しかも妥当な例が挙がるというのはそれなり以上に理解している証拠と思えるためである。ちなみに,そうした例は,きょうの授業でフィードバックした。フィードバックのファイルはここから
きょうの授業で用いたパワーポイントのファイルはここからダウンロードできます。

2007年10月5日金曜日

職業選択の自由の不自由または自由意志


きょうは出張。いつ頃から始まったのか,高等学校での模擬授業や進路相談。親和にも結構頻繁に業者主催のセミナーや高等学校からの模擬授業の依頼がくる。学科の教員で分担はするのだが,高校生と話すのも私はそれほど嫌いでない。  

きょうは進路相談だった。高校1年生,2年生がさまざまな大学,短大,専門学校から様々な学科,専門についての説明を受けるというもの。多いところには10数名固まっていたようだが,心理には残念ながら1年生が2人,2年生が4人とこぢんまりした集まりだった。

そもそもこのような説明会が必要な理由は何なのだろうと考えてみたことがある。職業選択の自由は憲法第22条で定められている。けれども,第24条の両性の合意にのみ基づくと規定した婚姻と同様に,家庭の事情,親の干渉などなどの理由によって,絵に描いた餅であるように見えなくもない。もちろん,現実でなく理想を掲げたものとして,つまり国の方向性を示すものが憲法であれば,それで一向に不都合はない。

今の高校生が,そうした親の意図や事情を離れて,全く自由に決めてよいと言われて,さてどの程度の高校生が「それでは」と明確な希望を自らの意志によって決められるのだろう。大学生でさえ,自分が何をしたいのかわからない学生が少なくないというのに。

行動分析学は,話が大仰になってしまうが,いわゆる「自由意志」を仮定しない。つまり決定論に立っている。スキナー(1971)の自由と尊厳を越えて(上の画像はクリックすると拡大されます)は,それ故に物議を醸した。自由意志を認めたいという「気持ち」は十分に理解できる。様々なものから自由でありたいと思うからこそ,人には自由意志があると信じたい。逆に言えば自由でないからこそ自由であると信じたい。白石冬美曰く「たがの中の幸せ」。とりわけ創造論を信じたい立場からは人と人以外の動物は峻別されねばならず,故にスキナーは許し難いのだろう。

職業に限ったことではないが,非常にたくさんの選択肢が存在する。すべての職業を知悉して,その中から自分の適性,志向,将来性,何を得たいかなどといった要因を考慮して,自由意志によって選択するなどということは到底出来ない相談である。今ここにあるもの,その中で自分が知っているもの,自分の能力やその職業に就くために必要な労力,お金などなど,多くの制約によってごく少数の選択肢に限られる。その中から選ぶのが「自由意志」であると言えばそうなのだろうが。

今の高校生や大学生が感じている戸惑いは自由度が高い,つまり選択肢が多すぎることが一因のように思える。あらかじめ親の仕事を継ぐと決められていれば,あるいは,選択肢としてAかBしかないようにな状況であれば,特別悩む必要もない。選択肢が多いからこそ,自由に選択してよいからこそ感じる不自由さ,そのような逆説的な状況にあることが,きょうのようなセミナーを必要とする理由のひとつなのではと思うのである。

きょうのオーディエンスは小さかったが,1年生も2年生もそれぞれそれなりに楽しんでもらえていたら嬉しいのだけれど。そして,心理学を自分の選択肢の一つとして具体的に考えてくれればいいのだけれど。

Skinner (1971). Beyond Freedom and Dignity. Indianapolis: Hackett Pub.

2007年10月3日水曜日

就職活動と卒業論文 ps

私たちが当たり前だと思ってやっていることの多くは,世界を見渡すと当たり前でない。この4月入学についてもそうである。たとえばここに詳しい記事がある。

さて,とりあえず文科省が自由化といっても「はい,そうですね」とはならないのだろうが,少なくとも犠牲となっているのは学生ひとりひとりである。彼/女らの利益が最大限になるように私たちは考えなければならないということだけは確か。案外どこかの大学が先走って,学生募集によい効果が現れると,それこそ「右にならえ」となりそうではあるけれど・・・。

就職活動と卒業論文

私はいわゆる就職活動をしたことがない。もちろん,大学に就職するに当たっては,いくつもいくつもいくつもいくつも応募して,その回数マイナス1回失敗してきた。
ここではもちろんそんな話でなく,最近話題になった文部科学省による、「原則4月」と定めている大学の入学時期について、年内にも完全に自由化されたことと関連する話である。

4回生のゼミは運営が難しい。就職活動と重なるためである。いきおい学生ひとりひとりと授業時間外に会うことになる。

私は原則として9月入学・9月卒業に賛成である。高校3年生の3学期が授業が成立しにくい以上に,大学4回生の授業は成立しにくい。下手をすると3回生の後半から就職活動に気持ちが移ってしまう学生も少なくないだろう。9月入学・9月卒業(実際はおそらく6月卒業になるだろうが)のシステムにすれば,大学入試はすべて4月から6月の間に実施し,大学生の就職活動は翌年の4月入社に向けて卒業後から始めればよい。少なくともきちんとした授業を高校でも大学でもしようとすればこれで問題はなくなる。

これまた最近のニュースに,受験勉強を全くしたことがない大学生が相当数いるという話があった。親和でもそうだけれど,様々な入試形態が採られるようになったこともその一因だろう。もし高校を卒業するまで行き先としての大学が決まっていなければ,おちおち遊んでばかりはいられない。4月から始まる試験に向けて今よりはよほど勉強する高校生(卒業生)は増えるのではないだろうか。

もちろん,この考えにも問題がないわけではない。格差が広がる一方であるという社会情勢の中で(実際,年収1,000万円以上の割合と200万円以下の割合が増えているという),大学の学費を支払うのは,多くの家庭にとって決して楽なことではない。その上,高卒後半年間,大卒後9ヶ月もの間,文字通り「無所属」で過ごすというのは,家計への影響だけでなく,様々な問題を引き起こす危険性も考えられる。空白の1年(プラス3ヶ月?)の過ごし方は,前首相がのんびりと「ボランティアでもさせたらいい」というわけにはいかないのだろう。

それでも,きょうもまた4回生のゼミが成立しなかったことを思うと,また学生たちの真面目な就職にかける姿勢と卒業研究との板挟みになっている状況を思うと,決してこのままでいいとは思えないのも事実なのである。

2007年10月2日火曜日

心理学研究法 第2回 (10月1日)

心理学研究法の2回目。シラバス通りに心理学と科学について。当日使用したパワーポイントのスライドはここを右クリックしてダウンロードして下さい。ファイル名は適当に変更して下さい。

研究法は最も大学らしい授業のひとつであり,だからこそ最も面白い科目のひとつだと信じています。研究すること,つまり何かが自分の手で「きちんと」わかることのおもしろさを伝えられればよいのですが・・・。もちろん,将来的に大学院に進学し,研究者や臨床心理士を目指す人だけにでなく。

授業で扱った科学の背景については,少し古い本ですが,主に,村上陽一郎「文明の中の科学」(1994, 青土社)に基づいています。図書館にも配架されていますので一読を勧めます。

再開

夏の太陽もようやく南下したようで,ようやく秋らしい空気になってきた神戸。

1年半前に同じ名前で始めたブログはほんの数回で閉じてしまった。
今回は,実用的な目的を兼ねての再開。今度はちゃんと続きますように。

ちなみに本務校の神戸親和女子大学のスクールカラー?は緑とオレンジ。
ブログにもこの色を選んでみました。