2008年8月4日月曜日

神戸松蔭 学習心理学Ⅰ レポート締め切りました


0:58のタイムスタンプのレポートを最後にレポート提出を締め切った。私の不注意で何度も確認メールを催促しなければならなかった方には,この場を借りてお詫びしたい。

さて,レポートの内容は,これはいつもそうだが,自分なりの考え方をまとめたものから,いくつかのページをそのままつぎはぎしたものまで様々である。後者については,文の表現が途中で変わっていたり,その他の理由で一見して,剽窃したものであることがわかる場合が多い。ちょっと怪しいなと思ったら,一つの文章を検索すれば,そのまま引用した(この場合は剽窃だが)ページがわかる。同じ使うにしても,引用を明示するなどすればよいのにと思うことしきりである。

感想にもいろいろと貴重なものがあった。私語に対する思いや,大学生のあり方に言及したもの,比較的否定的なものが多くあったのは,サンプリングの偏りなのだろうとは思う。ただ,今の大学は昔の大学ではない。少なくともこれはよいことなのだが,様々な理由で大学で学ぶことができなかった人が多かった昔に比べて,遙かに多くの割合の人が大学で学ぶことができている。たとえばこのページによれば,1960年から右肩上がりで上昇した大学進学率は70年代の半ばから90年代の初頭まで約25年の間,25%前後で推移していた。そして,その90年代初頭から再び右肩上がりになって,現在では40%を越えている。つまり5人に2人は大学,さらに短大,高専,専門学校を含めてしまうと70%を越えて,ほぼ4人に3人が,いわゆる高等教育を受けていることになる。さらに,同じページの下の方には,80年代半ばに3万人余りだった大学院への進学者も実数として約3倍に伸びていることが示されている(ちょっと見にくいが,右上の図がその変化を示したもので,画像をクリックすれば,より大きい図を見ることもできる)。

いまさらここに書くまでもないが,Martin Trowの言う,エリート型,マス型,ユニバーサル型の分類で言えば,日本の現状はすでにマスを越えてユニバーサル型に入っていると考えてよいだろう。一部にエリート教育が可能な大学はあるだろうが,誤解を怖れずに書けば,親和であれ松蔭であれ,他の多くの大学と同様にユニバーサル型の大学として存在しなければならないのが現状である。そこで,かつての大学のイメージを基準に現状を見ると,納得しにくい点がいくつか現れてくるのは致し方ない。かくあるべきという理想と乖離した現状を否定することは,そのような大学の存在意義自体を否定することに他ならない。そうでなくて,私たちがやるべきことは,現状をきちんと把握して,それがあくまでも「現状」であることを認識して,そこから出発することしかない。FDであれ,学生による授業評価であれ,第三者評価であれ,いずれも現状がどうかを理解して,そこから少しでもよい方向に向けるにはどうすればよいかを考える手段なのである。

回りくどい言い方になるが,私の学習心理学の授業でずっと私語が続いてしまっていたのは,学生の問題だけでなく,私自身の問題でもあるのだということなのである。後期(実はこの期に及んでまだ交代できないかと模索中なのだが)には,さしあたって座席指定(やるからには,教務にお願いするのでなく,前任校でやっていたように,私が毎時間座席指定)するしかないかと考えている。と,同時に,これまでの私なりの工夫では十分ではないと言うことなのだから,授業の進め方自体も,私が基本的に説明するというスタイルから,テキストを読みながら一緒に考えるなど,何か別の(ある意味で高校で学生が馴染んでいるだろう)スタイルに変えてみるのも一つの手段かと考えているところである。

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