2008年7月24日木曜日

神戸松蔭 学習心理学Ⅰ第14回 

調査に協力をお願いしてきょうが3回目。現時点で親和でも他大学でも進行中なので,調査の目的などの詳細については後日ここで説明するが,回答することが楽しくなるような内容の調査ではないので,真摯に協力してくれたみなさんに,この場でもお礼を申し上げたい。

たまたまきのうのニュースにこんなのがあった。

たばこの煙払い、鼻折られる-埼玉
さいたま市在住のアルバイトの男(22)は22日午後9時50分ごろ、さいたま市南区別所の路上で喫煙していたところ、通りかかった「嫌煙派」の男子大学生(23)が自分の顔の前で手を振り、煙を払ったのを見て立腹。大学生ともみ合いになり、顔を殴った。大学生が「知らない男に顔を殴られて鼻血が出た」と110番。駆け付けた同署員が男を逮捕した。
受動喫煙の防止について、健康増進法は屋内の多数の者が利用する施設と規定しているが、路上喫煙を規制するために公道も含めるかどうか、議論は分かれている。

公的な場所と私的な場所の区別,自分の行動が他者へどのような迷惑をかけているのかについての認識も,ひとりひとりの経験によって作られていくしかないが,他者が自分はそれを迷惑に感じていると表現すると,上記のような痛い目に会う結果を招いてしまう。結果,表現することをやめてしまうと,他人は迷惑していることを感じる機会がなくなってしまう。悪循環。この悪循環を断ち切る良い方法はないものだろうか。結局,いくつかの自治体が行っている路上喫煙に科料を徴収するという弱化の方法しかないのだろうか。

閑話休題。最後の授業は小テストと消去と復帰の残りをさらって終了。正直に言えば,やっと終わったという感じ。こんな教員でも,最後までまじめに授業に参加してくれていた学生が少なからずいたことを,これまたお詫びをした上で,感謝するしかない。結局,授業に積極的に参加してくれる学生の反応が,準備してしゃべる側の何よりの好子なのである。さて,きょうの小テストとレポートの結果や如何に。

2008年7月20日日曜日

学期の終わりのお引っ越し

別に好きこのんでこの時期になったわけではないのだけれど,火曜日はお引っ越し。春先にたまたま見つけたオンボロ一軒家に,とりあえず住めるようにするための手を加えていたら,いつの間にかこんな時期になってしまったというわけ。

もともと私は父の仕事の都合でごく短距離ではあるけれど,小さい頃から引っ越しを繰り返してきた。大学で東京に出るまでで9回,東京で2回(2回目の引っ越し,東京での3箇所目がこれまでのそれほど短くはない人生の中で最も長く住んだ場所である。たしか10年くらい同じ場所にいた)。その後のLondonでも4箇所に住んだ。帰国してから東京に戻る前に実家で半年を過ごし,その東京での3年の後,大阪にやってきて3箇所を通り過ぎて神戸にやってきたのが2年数ヶ月前。そして今回の引っ越しに至ることになる。通算22回目のお引っ越しである。

幸か不幸か梅雨も明けて,高校訪問,模擬授業,学期末でのレポート,成績評価,それに加えて実験準備,オープンキャンバスなどなど,枚挙に暇がない中での引っ越しなのだが,私が荷造りするのはただ私の部屋の中のものだけ。後は家人がせっせこともうずいぶん前からほとんどひとりでやっている。移り住む先の改装についても,キッチンのことを除けば私はほとんどタッチしなかった。家人は私などよりはるかに具体的なイメージを持っているようで,ちょっと気づいたところに口出ししても,ほとんど意味を持たない。また,意見を求められたとしても,正の強化を受けることはまずない。要は,消去されてきたのである。

22回も移り住んでいるせいか,またずいぶん年齢をとってから人並みの生活を始めたせいか,結構な年齢になった今でも,住むところにはあまりこだわりがない。家のつくりなどなどについてはこだわりがないと書いた方が正確だろう。大人になってからは,住む街にはこだわりたいし,自分の住処の中に自分だけの空間(つまり自分の部屋)は必須である。何ということと顰蹙を買うことを承知で書いてしまえば,子ども部屋はなくても自分の部屋は確保しなければならないし,その自分の部屋には,子どもたちであっても,自由な出入りは禁じている。

そのような自分の空間は確保したいという思いの一方で,その入れ物,つまり家を持つとかマンションとかを自分のものとして買うという発想はほぼ皆無に等しかった。毎週末に届くずっしりとした新聞の折り込みの束を眺めれば,なるほど家を持つことが多くの人にとってとても大切なことなのだろうことは何となく想像はつくのだけれど,30代から定年近くまでのローンを組んでということが,実行に移される必要があるかは,わからずにいたし,今でもよくはわかっていないのだろう。

にも関わらず今回このようなことになってしまって,段ボールの山とまだこれから詰め込まなければならない本やCDを眺めていても,そして移り住む先(今住んでいるところから車で5分とかからない)に何度か足を運んで,ほとんど移り住むことができるようになっていることを目の当たりにしていながら,まだ実感がない。

もう10年以上前のことになってしまうが,ロンドンに住んでいたときに,ときどき妙な感覚に襲われたことがあった。確かに私はそのときロンドンにいて,日々実験をし,パブに通い,コンサートに通っていたのだが,ここにいる自分とは別にもう1人,東京にいてあの懐かしい場所で変わらずに齷齪と生活している自分もいるのではないかしらという感覚である。なんだかそんな感覚がごく近い将来またやってくるのかなという想像を巡らせたりしている。

2008年7月13日日曜日

神戸松蔭 学習心理学Ⅰ第11~13回 オペラント条件づけ(2~4)

ここ2回分の授業内容について書かずにいたが,一応触れておこう。第11回は反応強化子随伴性,4つの基本的手続きの枠組み,第12回は強化子と確立操作,そして第13回の7月10日の授業で消去の半ばまで。次週は所用のために休講しなければならないので,復帰のこと(とこれに伴ってオペラントレベル)を扱って,前期は終了である。

来週の予定を確認しておくと,まずフィードバック(それほど時間はかからないかもしれない),その後,調査の3回目,小テストの2回目,そして残りの内容を扱う。念のために書き添えるが,小テストで出題する範囲は,7月10日までのオペラント条件づけの内容である。基本的には第1回と同じように,基礎的な用語をきちんと理解しているかどうか,日常的な行動をそうした用語によって説明できるかどうかを確認するためものである。

なお,プリントでも配布したが,レポート締め切りが,教場では24日,メールでは8月4日であることを,再度確認しておく。

2つの授業参観: 知っていること,できること

親和でもFD (Faculty Development: 大学教員の資質開発,とりわけ授業内容や方法の改善・向上を目指す) の取り組みが行われている。昨年度より始まったのが,教員相互の授業参観である。今回は3つの授業を(うち一つは所用のために最初の30分だけ)参観した。

驚くことも沢山あったのだけれど,私の授業に比べると,3つのどの授業もより多くの学生の興味・関心を引きつける力の強いものだった。だからといって,私の授業を自ら卑下しているわけでも貶めているわけでもない。選んだ授業の3つがいずれもたまたま,実学的な要素の強いもので,そこで学ぶことが自分の近い将来の仕事に直結する,理論を伴いながらも具体的に何をどうするかという内容のものだったことが,その最も大きな理由だったのではないかと考えるからである。

たとえば,幼児教育の教員の話し方は,私が知っている限り,いわゆる幼稚園や保育園の先生方が子どもたちを相手にするときのしゃべり方とほとんど変わらない。実は最初耳にしたときには,言葉を選ばずに書いてしまえば,目が点になる思いだった。けれども,すぐに気づいたのだが,そうした話し方は学生が近い将来にこどもたちを実際に相手に話すときのとてもとてもよいモデルとして機能しているのである。一緒に歌って,手遊びをして,といった様子は,私がこれまでに全く大学という場所で見聞きしたことのないものだった。

幼児教育の授業の例は,ほんの一例だが,そうした授業で私が最も強く感じたことは,当たり前のことなのだが,自分ができることというのは,自分が知っていることから大きく逸脱しないということである。私が過ごしてきた大学,大学院の時間で巡り会った教員が一体全部で何人いたのかわからないが,たぶん私が現在行っている授業の形態は,そうした経験をもとにして私なりに変化させて工夫したものにすぎない。昨年参観した心理学関連の授業は,私がそれまでに知っていた範疇に十分収まるもので,今回のような驚きは些かも感じることがなかった。

今回の参観した授業の中から私が実際にうまく取り入れられる方法がどれほどあるかはわからないが,少なくとも,自分がこれまでに知っていた枠を壊してしまってもよいのだということを感じられただけでも,十分すぎるほどの収穫だったと強く思う。

もうひとつ付け加えれば,私の知らなかったこと,また誤解していたことが,内容としてあつかわれており,勉強になった,そして,わかっているつもりできちんとわかっていないことが,当たり前だけれど,沢山あるのだと,これまた痛感した。

心理学(共通教育) 第12, 13回 性格・知能

おそらく一般にイメージされる心理学の中核,性格。そのテーマと言うだけでなく,もうひとつの意味でも一般にイメージされる心理学の中核と言いたいのが,この性格(と,ついでに知能)。
誰もが知っていて,誰にもきちんと説明することのできない現象,事象,要因,何かという意味である。

おそらく誰もが親や友人や教員やetc.に,お前は○○な性格だから・・・とか××な性格だなあとか言われて育ってきた。そこで使われる日常的な意味での性格と,心理学で使われる意味での性格と,もちろん重なっている部分もあるが,そこから大きく逸脱している部分もある。とりわけ,日常的にはアプリオリに何らかの意味でわかっているものとして扱われているのに対して,心理学ではそれ自体が説明されるべき対象である。つまり,きちんとわかっていない。

前述の心理学の中核というのは,この意味である。すなわち,日常的に何となくわかって使われている事柄であるのに,心理学的にきちんと説明しようとすれば,さて何なんだろうと頭を傾げてしまう事象を心理学はとても沢山抱えている。その典型という意味である。

もうひとつ書いてしまえば,正確にいつの頃からか知らないが,Kretschmerを説明する教科書が欧米にはまず存在しないのに対して,日本の教科書では旧態依然としている。そもそも類型論的な理解を大学で教える必要があるとすれば,心理学史においてだろう。そのような現象,洋の東西で教えられる内容の隔絶は,私が学生であった頃が最後でない。1980年代にして,10年遅れていると言われていた,そのまま今に至っているのか。それともさらに周回遅れになってしまっているのか。もちろん,心理学でも最先端を走っている人たちが日本にも沢山いて,そのような人たちが10年遅れているわけでないことは急いで書き添えなければならないが・・・。

そして,肝心の内容。私たちは,性格や知能について,学生に今,何を教えなければならないのだろう。旧態依然とした授業をしながら,これまた教える側も首を傾げてしまわざるを得ない。

2008年7月5日土曜日

初代に名門なし

このタイトルは,芝居の話である。もともと誰が言い出した言葉かは知らないが,私が知ったのは中村仲蔵という落語である。圓生か先代の馬生で聴いたのが最初(と言っても生で聴いたことはない)。

親和に着任して固辞していた大学院での指導を今年度から担当させていただくことになり,親和の修士の面白いと言っては言葉が違うかもしれないが,研究指導(臨床の指導はまた別個にある)の担当が決まるのが春学期が終わってからだった。今年度からは少しだけ早くなったが,それでも7月の初旬である。

昔の大学院と今の大学院では,院生の求めるものが異なっており,必然的に大学院の入試のありようも私の時代(もう20年以上前になってしまった)とは全くと言っていいほど別物になってしまった。つまり,大学院も大学入試と同様に,資格取得,大学の名前,あるいは偏差値といったような要因によって受験生から選択されて,受験対策もいわゆる大学入試と同様に過去問を検討するなど,文字通りの「お受験」である。そもそも,大学院を志す人数が昔とはかけ離れた桁数になってしまった。その評価はまた別問題だが,少なくとも記述的にはそうである。

この間の事情やそれに対する私なりの考えはまた時を改めたいが,要するに,私が大学院で正式に指導する学生の初代が決まったということである。そして,その3名を歓迎したいということである。私たちの周囲は様々な偶然に満ちている。それをある種の必然として「共時性」などという言葉で飾りたい人の心情を唾棄してしまうほど無粋でないつもりだが,それを学問の世界に,科学の世界に持ち込むのはどうにかして欲しいというのも正直なところである。それだけでなく,そうした偶然が良い結果をもたらすか否かは,あらかじめ決まったものでなく,その出来事の後でどのような相互的な関わりがあるかによって決まるにすぎない。共時性と喜んでことが足りるほど現実は甘くない。これからわずか1年半しかない時間だけれど,3名との関わりを私は「濃密な」ものにしたいと考えているとしたら,この3名はすでにこの時点で後悔してしまうのかしら。

こんなコメントをブログに書いてしまう教員を指導教員に選んだ3名にお願いがあるとすれば,どうぞどうぞ生意気になって欲しいということ。教えてもらうのでなく自ら学んで,私なんかはせいぜい踏み台程度にしか考えないで,成長してくれれば,あるいは少なくとも,共同研究者として一緒に研究を進めることができればと思う。

しかし,名門だなんて,このタイトルはちょっと大仰だったかな。

2008年7月3日木曜日

ちょっとおめでたいこと


あまり書きたくない日々が続いていたのだけれど,ちょっとおめでたいことは書いておきましょう。7月1日は150周年。この写真のSir Charles Darwinが,Alfred Russel Wallacesと共同(と言っても,両名ともその場は欠席していたのだそうだが)で,進化論のアイディアをThe Linnaean Society of Londonで発表したのが1858年の7月1日。Darwinがいなくても,やがて進化論は新しい生物学を率いることになったのだろうが,誰がその始祖であったとしても進化論的な考え,とりわけ変異と選択(Variation and Selection)無くしては,行動分析学も生まれようはなかった。古典的行動主義であるWatsonの機械的連合論にも,刺激と反応との媒介過程(今の認知心理学などの基盤である)を探る新行動主義にも,Skinnerの言う変異と選択は含まれていない。

そのSkinnerが亡くなって,もう18回目の夏を迎えようとしている。彼の基本的な考え,そして行動分析学に基づく活動が変異と選択を経て,さて,最終的に淘汰されてしまうのかどうなのか。私にはそれほど悪くはない現状と,とても楽観的な展望が開けているように思えるのだけれど・・・。

学習心理学Ⅰ 課題レポートについて

きょうの授業で発表するとアナウンスしておきながら,全く失念していたレポートの件。別紙の通りとする。ここからダウンロードまたは参照できる。来週の授業でプリントも配布予定である。

授業内容についてのコメントを書けないでいることについてもお詫びしたい。

授業で使用したパワーポイントのファイルはいつものようにアップしてある。

2008年7月1日火曜日

心理学 レポート 過ちて改むるにはばかることなかれ

レポート提出の数が増えてきた。添付ファイルで提出されたものには,受領のメールを送っているが,ちょっと気にかかったことがあったので,ここに書いておく。明日の授業でも話すことになるとは思うが・・・。

気にかかったというのは,剽窃。ひょうせつと読む。他人が書いたものをそのまま無断で自分のものとして発表することである。つまり,盗みである。残念ながらそのようなレポートが提出されている。これは授業でも話したことだが,剽窃されたかどうかを調べるのはそれほど難しいことではない。今から時間に追われて,ネットからそのままコピペして提出するなどという安易な方法には決して頼らないでほしい。剽窃レポートは評価は0点である。すでに提出してしまったという学生は,締め切りまでは再提出してかまわない。自分の言葉で書いてほしい。前回が剽窃であったことで減点はしない。過ちて改むるにはばかることなかれ。

念のために書き添えるが,引用と剽窃は違うからね。