2007年12月20日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第12回 (12月20日)


前回の小テスト欠席した学生のための対応をとりあえず。

12月13日の小テストを正当な理由で受験できなかった学生は,ここから欠席者用レポート課題2.pdf をダウンロードしてください。詳細については,このファイルに記載してあります。

授業内容についてはまた後で。

2007年12月19日水曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第11回 (12月13日)

遅くなってしまったけれど前回の報告。

第2回の小テストを実施。いつもながら,今回もきちんと受験してくれることに感謝。もちろん成績はまた別の話だけれど,テストが公正に実施できることはまず何よりも大切なことである。小テストはすでに採点済みだけれど,明日の授業で報告するためにここでは何も書かない。


さて,きょうから臨床の話。行動的なアプローチの臨床の基礎はあくまでも学習心理学である。もちろん「認知」のくっつかない学習心理学である。現実にはパヴロフ型とオペラントの2つの条件づけのどちらか一方だけで処理できる話ではないのだが,まずは導入としては典型的な例から始めなければならない。もちろん臨床だけではないのだけれど,これまで勉強してきた内容は日常場面の様々な行動を説明する枠組みを与えるものなのである。これを前提として理解してもらえれば,今回のパヴロフ型による獲得と介入の方法の説明,次回のオペラントによる獲得と介入,そして年明けのパフォーマンスマネジメントをより深く理解できるだろうし,自分自身を,これまでとは異なる新しい枠組みで捉えられるようになると思うのだけれど・・・。

2007年12月16日日曜日

認定心理士の基礎: 心理学研究法の重要性

今年度より,日本心理学会の認定心理士資格認定委員会の委員を担当させていただいている。昨日がその第1回で,前委員の方々と協同作業(新任委員のOJTを兼ねてのことだろう)で,多数の資格審査を行った。

認定心理士の資格そのものについての議論は様々であり,心理学関連で最も力のある臨床心理士をはじめとして,学会が認定する資格は本当にいくつあるのかわからないのが現状である。国家資格化の問題を含めて今後きちんと考えていかなければならない。それはさておき,今回担当させていただいて改めて気づいた2点を書き留めておきたい。

ひとつは,いわゆる心理学科でなく,他学科の卒業生からの申請が多数あったこと。資格審査は(日本心理学会の該当ページはこちら),「心理学の専門家として仕事をするために必要な、最小限の標準的基礎学力と技能を修得している」かどうかについてのものである。ここで強調したいのは,「最小限」という文言であり,いわゆる心理学科を卒業すれば自ずと同等レベルの学習を修了していることになるのだが,関連学科では必ずしもそうではない。ここに認定心理士という資格認定を必要とする理由の一つがあったことに,私は遅まきながら気づいたのである。

もうひとつは,今回の資格認定で保留や不合格になった応募者の多くが,基礎科目のうちの研究法や実験実習に不足が生じていたことである。基礎科目として設定されているのは,A.心理学概論,B.心理学研究法,C.心理学実験・実習の3領域である。それぞれ,「心理学を構成する主な領域に関する均衡のとれた基礎知識を備えているかどうかを判定」,「心理学における実証的研究方法の基礎知識を備えているかどうかを判定」,「心理学における実験的研究の基礎を修得する意味で心理学基礎実験・実習の経験をもっているかを判定」することが主旨である。

つまりは,大学での心理学教育の基礎はこの3領域にあることを意味しており,各論での深い知識は,こうした基礎領域の上に積み上げられてこそのものだということに注意して欲しいのである。今回保留となった応募者のひとりは,G領域(臨床心理学・人格心理学)で10科目ほどの履修を記録していたが,上記のうち,実験実習の履修内容に不明な点があったために認定できなかったのである。D.知覚心理学・学習心理学,E.教育心理学・発達心理学,F.生理心理学・比較心理学,G.臨床心理学・人格心理学,H.社会心理学・産業心理学の5領域は選択科目として設定されているが,これらのうち3領域で3単位以上で合計16単位あることが資格認定要件として定められているだけである。換言すれば,人格心理学や臨床心理学について全く単位を修得しなくても認定心理士としての要件を満たすことができるということである。

これは私の未だに消すことの出来ずにいる偏見に過ぎないのかもしれないが,心理学を勉強することは,すなわち人格・性格・臨床といった領域の勉強をすることであると考えている人が少なくないように思えてならない。この資格要件を見てもらうと,そうではなくて,研究法や実験的な方法論を修得することこそが,心理学の専門教育と不可分なのであることに気づくだろう。実際,資格認定で詳細に審査するのは基礎領域,とりわけ研究法と実験実習なのである。だからこそ,申請にあたってシラバスのコピーを添付することが義務づけられているのがこれら2領域だけなのである。

今月末には,資格認定の要件に若干の変更が生じて,申請用紙等も日本心理学会のウェッブページからダウンロードできるようになる。現行の資格認定基準は2012年3月まで生き続けるのだが,今回改定される認定基準でも基礎領域の重要性はいささかも減じることはない。それどころか,心理学概論と研究法とは,選択科目の3領域と同様に3単位でなく4単位の修得が必要となり,その必要性を増しているのである。

2007年12月12日水曜日

心理学研究法 第11回 (12月10日)


研究デザインの2回目。今回のポイントは2つ。研究,特に実験は独立変数と従属変数の関係を調べるための方法であるが,それがうまくいくかどうかは,剰余変数の統制がきちんとできるかにかかっている。研究デザインはその統制を行うための基本的な考え方であることがひとつ。これは,剰余変数の統制の復習として役に立ってくれていればよいのだが。

もうひとつは,発達研究のような,時間(年齢)を独立変数として用いる研究方法の難しさである。これをクリアするための方法として縦断的・横断的・コーホート研究があることがもうひとつ。

授業で配布したプリントでは,正高信男の3才児と4才児の母親との関わりを扱った研究のグラフが鮮明でなかった。いつものように,ここに上げたファイルでは,もう少し見やすくなっていると思う。リアクションペーパーには,グラフの見方が難しいなどといったコメントがいくつか見られたが,研究法という授業の中で,そのようなリテラシーに関する実習を含んであげれば,実験実習で作成するレポートなどとの関連も高まって,学生のニーズに応えられるのかもしれない。来年度以降の課題としたい。

正高信男の名前を紹介したら,知っている学生がそれほど多くなかった。親和の図書館にも数多く配架されているのだが,蔵書検索で調べてみたところ,2~3冊が貸し出し中になっているだけだった。授業で紹介した,画像にある「ことばの誕生」も現時点では貸し出し可の状態である。一般向けにやさしく書かれているが,内容自体は興味深いものが多くあるように感じる。時間を見つけて読んで欲しい。研究自体のイメージももう少しつきやすくなるかもしれない。

ちなみに,ことばの誕生に関して,正高信男が生命誌研究所に書いたものがウェッブ上で閲覧できるが,これについてはまた稿を改める。

さて,来週は第1回小テスト。前回の授業で話したように,11月19日に実施したものは無効としているから,今回が第1回。前回分を含まずに,以下が範囲。

第7回 (11月12日) 剰余変数の統制.pdf
第8回 (11月19日) 小テスト・剰余変数の統制2(ファイルは次回)
第9回 (11月26日) 剰余変数の統制2.pdf ・観察法の導入まで(ファイルは次回)
第10回 (12月3日) 非実験的方法 観察法.pdf
第11回 (12月10日) 研究デザイン.pdf

つまり,剰余変数の統制,非実験的方法(観察法),研究デザインの3つがテーマである。なお,観察法で扱った,行動のサンプリング方法については出題しない。

残りの4回の最後にもう一度小テストを実施し,今回と合わせて40点満点。別途レポートを30点満点で出題して,当初予定の出席点30点,小テスト70点の代わりとする。

2007年12月6日木曜日

学習心理学Ⅱ@松蔭 第10回 (12月6日)

先週に続いての社会的行動,そして行動と感情の関係の1回目。その前に,霊長類研究所の最近の大きな話題を公開されているビデオで紹介した。

模倣も,表情によるコミュニケーションも,いずれも話題が具体的で身近なためか,リアクションペーパーの内容も比較的豊かだった。これらの背後にあるメカニズムとしての行動分析学につながってこうした現象を捉えられるようになれればよいのだけれど・・・。

たとえば,こんな反応があった。「日本人が外国人の表情をよく評価するのは,素直に喜んでくれる人があまり周りにいないため・・・」とか,「自分は無愛想とかよく言われるが,海外の人と話すときには自然と表情が豊かになっているように感じる。」とか,「昔からの文化によると思う。個人の気持ちを隠して,無心であることこそを美徳としてきた日本人にはしかたのないこと・・・」といったものである。これらは,いずれも,特定の表情をするという「行動」を他者との関わり,つまり行動の随伴性によって形成されたものとしてとらえて,単に,そこに見える現象を記述するにとどまっていない。日本人の表情はわかりにくい,表情が乏しいといった現象を記述するにとどまらず,なぜそうであるかを,行動の随伴性によって説明できることがわかれば,もっとおもしろいと思うのである。前掲のようなコメントが,どこまで行動の随伴性を意識して書かれているかはわからないが,少なくとも関わりを持つコメントであることには変わりない。このように,日常行動を行動の随伴性という視点から見つめられるようになってくれればとても嬉しい。

次回は第2回小テスト。範囲は以下の通り。

第6回 (11月 8日) 言語行動とルール支配行動
第7回 (11月15日)および 
第8回 (11月22日) 選択行動とセルフコントロール
第9回 (11月29日)および
第10回 (12月6日) 社会的行動

但し,選択行動のうち,対応法則の細かいことについては出題しない。いつもの通り,日常的な行動との対応関係が理解できているかどうか,基本的な用語がきちんと理解できているかどうかを確認するためのテストである。

2007年12月4日火曜日

心理学研究法 第10回 (12月3日)

小テストの扱いを決定した。前回のテストは成績評価に含めない。また原則として採点もしない。希望者のみの採点を行う。成績評価は次回以降のテストと必要に応じてレポートを課すことで行うこととする。いろいろな提案があったが,勉強したことを反映した結果であることを原則とすれば,不正に取得した得点が成績に含めることは避けなければならない。また,授業の進行を考えると同じ内容のテストを再度実施することもできれば避けたかった。こうした理由からの決定である。

きょうは面接法について。そして研究デザインの導入。前年度は剰余変数の統制を研究デザインの後に行ったために,配布プリント(前年度のものを若干手直ししただけ)に重複部分が多くて,授業の進行上に支障を来してしまった。またまた反省。日々反省ばかりです,トホホ。

行動療法学会に参加しました

臨床心理士の資格を取得してから,日本行動療法学会に入会したものの,年次大会への参加は去年に続いて今年でようやく2回目。私が現在本拠としている行動分析学会とずいぶん雰囲気が違っているのがおもしろいと言えばおもしろい。当然基礎系の人がいないこともあって,学会に参加しても知っている人はほんの一握り。そして,なぜか若い人を含めてきちんとスーツを着ている参加者が多いのも際だつ違いの一つである。良くも悪くも行動分析学会はTシャツにジーパンという出で立ちの人が少なくなく,ごくカジュアルな雰囲気なのだが,こちらはもうすこしきちんとしているというか畏まっているというか・・・。

気にかかったことがいくつか。まず,研究発表に,○○性と●○傾向の関係についてという形でまとめられるものが目立ったこと。要は質問紙を複数配ってそこで得られた数値から両者の特性の関係を,因果的に捉えようとするものである。これが現在多く行われている研究法のひとつであることは認めるのだが,行動療法学会でそれが目立ってしまうのはちと寂しい。いきおい,私が聞きたいと思う発表の数はごく少数にとどまってしまうのはありがたいことなのかどうなのか・・・。

もうひとつは,そうした質問紙での研究がメインだからなのだろうが,言葉の使い方がとても雑である。たとえば般化という言葉。おそらく多くの般化は反応般化でなく刺激般化なのだが,そのオリジナルの条件刺激または弁別刺激が何かを明確にしないまま何となく2つの事態が似通っているように見えると般化と呼んでしまっていたりする。参加したワークショップで不安階層表の話が出ていたが,ここではパヴロフ型とオペラントと混同したまま議論が進んで,何がターゲット行動であるのかさえ明確になっていない。「何となく行動療法」,「なんちゃって行動療法」と呼びたいような印象である。ちょっと意地悪な言い方をすれば,認知行動療法は,もともと「なんちゃって行動療法」なのだろうけれど。

もちろん勉強になったこともたくさんあった。上述の言葉が曖昧に使われたまま(極端な例は,操作的定義と言いながら,全くその定義に「操作」が含まれていなかったり)であることに批判するからには,私自身ももう一度その言葉の定義を明確にしなければならない。不安階層表について,これまであまり考えたことがなかったのだが,これについては3つのタイプに分かれることに気づいて,論文にまとめてみようかと思っているところ。

また,従来からブログを読ませていただいている久野能弘のワークショップでは,様々な領域での行動療法の展開,とりわけ学校の先生方を対象としたワークショップの話はとても興味深く,久野先生のお若い頃の活動の様子のビデオというおまけまでついていた。

マンイドフルネスの熊野先生のワークショップでもすぐ使えそうな,簡単なワークを教えていただいた。ただその一方で,熊野先生でさえ,学習理論の基礎的な用語を混乱して使っていたことに驚いたり(三項分析という言葉はいったい誰の造語なんだ?),表面的な類似性からACTの話を仏教とつなげて議論したりというのは私にはどうしてもなじめない。

全体を通して,結局行動療法の基礎が行動分析学にあること,認知という言葉を頭につけて行動療法や行動分析学への間口を広げてくれている現状はやがてきちんと行動分析学に立ち返るためのステップとなってくれるのではという楽観的な見通しを得ることができたのが一番の収穫だったのかもしれない。

2007年12月1日土曜日

It's not fair.

そのうちと書いていて,まだ書けなかったことをまとめておこう。

もう3週間前の親和の学園祭初日。春学期に担当した1回生の基礎ゼミの学生が模擬店出店で参加しているのだけれど,私は仕事で手伝えず。初日のハイライトは,蝦ちゃんが来ることだった。特別にファンというわけではないのだけれど,親和まで来てくれるなら是非見に行こうと,ぴあでチケットを確保して,ふたりの子どもも連れて行こうと妻ともども楽しみにしていた。

しかし,全く基本的な確認を怠って(尤も,何度か大学祭実行委員会に電話をしたり直接でかけたりしたのだが不在ばかり),3歳と4歳の子供達であれば膝上で入場可能だろうと勝手に判断していたところ,入り口で一人1枚ずつ必要ですと言われて,半分(妻とこどもひとり)だけ入ることも考えたのだけれど,諦めようと,すごすごと帰途についてしまう羽目になってしまった。

それで思い出したことがひとつ。チケットを巡る出来事と言うだけで,何も関連性はないこと。ロンドンにいた頃とても頻繁にコンサートやオペラに出かけていた。その一つでの出来事である。ボロディナとホロストフスキーというロシアのふたりがフェスティヴァルホールでオペラアリア集を歌った。コンサート自体はとても楽しかったのだが,事件?は休憩中に起こった。相当なビッグネームの2人だったにもかかわらず,オーディエンスは半分くらい。私が座っていたのはアネクセという1階の前寄りのサイドの席だった。前半のプログラムが終わると,1階席の後ろに座っていた人々が退去して前半分に異動してきたのである。中には2階,3階席あたりから民族大移動よろしく降りてきた人も数多くいたに違いない。

起こった事件というのは私も「それならば」と1階席の中央付近に移動した後だった。隣に座っていたらしきおじさんがトイレからかどこからか戻ってきてお前はどこから来たのかと尋ねるのである。日本からという冗談が口をついて出るような口調ではなかった。ほどなくおじさんは係のおばさんを伴ってもどってきて,後の処理は任したぞとばかりにどっかと座り込んだのである。

そこから先は係の女性と私のやりとり。要するに,It's not fair. お前さんのやったことはフェアでないということである。お前が持っているチケットはアネクセのものである,空席があるからこちらに移るというなら,その差額を払わなければ,フェアでないということである。差額を払わずにここに移りたいというなら,支配人に掛け合いなさいという。私だけでなくて多くの他の人たちも異動しているではないかと言うと,今問題にしているのは,お前のことだ,他の人たちを理由にしてお前の行動を正当化しようとするのはフェアでないという。日本人だと,叱られたとき,注意されたとき,あいつもやっているではないかという理由付けは何となく理解されるものだが,イギリスでは全く意味をなさなかった。

フェアであるかどうかがイギリス人にとってとても重要な行動の基準であることは何となく知っていたけれど,このような形で自分に降りかかってくるとは夢想だにしていなかった。そういえばこんなこともあった。自転車で町中を走っていたときのこと。横断歩道をまもなく渡ろうとする小学生の集団とその集団を先導している男の人がいた。まだ大丈夫と思った私はそのまま走り去ろうとしたのだが,その私の背中に浴びせられたのは,"Zebra Crossing!!"という怒鳴り声。要するに横断歩道を渡ろうとする人がいれば必ず止まれという注意である。

まあ,この後者の例はフェアである云々とは直接関わらないが,イギリス人がルールのようなものを如何に大切にしているかという意味で共通しているようにも思える。さて翻って本邦ではということを言い,あっちはいいとかこっちは悪いと言いたいわけではないが,数学者藤原正彦のことばを最後に引用しておく。

イギリス人はfairを尊ぶ。辞書の,公平な,公正な,適正な,正当ななどとは少し違っているという。「フェアーであることを,イギリス人は絶対的なことと考え,アメリカ人は重要なことと考え,ヨーロッパ人は重要なことの一つと考え,日本人は好ましいことと考える」

ちなみに,冒頭の蝦ちゃんの一件には後日談がある。その場にいた,実行委員の1人が心理の学生で,彼女がかけあってOKをもらってくれていたとのこと。OKをもらって戻ってきたときには私たちは帰宅の途に着いていた。いや,正確に書けば,羊への途。蝦が羊に化けた夜だった。