2008年8月9日土曜日

ちょっと嬉しいこと

8月11日の月曜日が,親和の前期成績の提出締め切り。学生には常々締め切り前にきちんと計画を立ててと偉そうに宣っていながら,その実,自分はと言えば,学生時代から染みついた行動傾向から全く抜け出せずにいる。とても適応的とは言えないからこそ,学生にはそうならないようにという老婆心での発言とお許しいただければよいのですが・・・。

さて,レポートを読んで評価するのは,時に苦痛で時に楽しい。文字通りVRの弱化とVRの強化が平行して走っているような状態である。まあもうひとつ,評価して提出することが最終的な強化(この場合の好子は教務課の職員さんの微笑み,それとも仕事を完遂することに対する報酬であるはずの賃金?)を受けているのだろうけれど。尤も,その強化も,より主観的には,何もしないでいると教務課からの催促という嫌子が出現するから,嫌子出現の阻止による強化であると言った方がより正しい気もする。

などという他愛もないことを考えていたら,大学院の研究法特論の授業の感想(だからレポートの内容そのものではないけれど)で,好子をいくつも発見している。たとえば,Skinnerを誤解していた,Darwinに影響を受けていたことすら知らずにいた,さらには,私が授業中に喋った中で印象に残った言葉として,「単一被験体の行動生起頻度を観察することの重要性は、事実を事実として観察し、解釈はしないことにある」をあげてくれた院生もいた。

そうなのである。事実と解釈・意味づけ(さらには理論)とどちらがより重要かと言えば,そこに現実として存在する事実なのである。それに意味づけをして解釈すると,何となく立派になったような感じがして,感心してしまうことがあるが,さて,その意味づけや解釈によって,その事実が理解しやすくなるのだろうか,それとも・・・?

正直に言えば,このことは,私自身それほど昔から理解していたことではない。学生時代だったか院生時代にだったかに読んだSkinnerのAre Theories of Learning Nesessary?という論文(今から半世紀以上前の1950に出版された)に書かれていたにも関わらずである。

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