2008年7月5日土曜日

初代に名門なし

このタイトルは,芝居の話である。もともと誰が言い出した言葉かは知らないが,私が知ったのは中村仲蔵という落語である。圓生か先代の馬生で聴いたのが最初(と言っても生で聴いたことはない)。

親和に着任して固辞していた大学院での指導を今年度から担当させていただくことになり,親和の修士の面白いと言っては言葉が違うかもしれないが,研究指導(臨床の指導はまた別個にある)の担当が決まるのが春学期が終わってからだった。今年度からは少しだけ早くなったが,それでも7月の初旬である。

昔の大学院と今の大学院では,院生の求めるものが異なっており,必然的に大学院の入試のありようも私の時代(もう20年以上前になってしまった)とは全くと言っていいほど別物になってしまった。つまり,大学院も大学入試と同様に,資格取得,大学の名前,あるいは偏差値といったような要因によって受験生から選択されて,受験対策もいわゆる大学入試と同様に過去問を検討するなど,文字通りの「お受験」である。そもそも,大学院を志す人数が昔とはかけ離れた桁数になってしまった。その評価はまた別問題だが,少なくとも記述的にはそうである。

この間の事情やそれに対する私なりの考えはまた時を改めたいが,要するに,私が大学院で正式に指導する学生の初代が決まったということである。そして,その3名を歓迎したいということである。私たちの周囲は様々な偶然に満ちている。それをある種の必然として「共時性」などという言葉で飾りたい人の心情を唾棄してしまうほど無粋でないつもりだが,それを学問の世界に,科学の世界に持ち込むのはどうにかして欲しいというのも正直なところである。それだけでなく,そうした偶然が良い結果をもたらすか否かは,あらかじめ決まったものでなく,その出来事の後でどのような相互的な関わりがあるかによって決まるにすぎない。共時性と喜んでことが足りるほど現実は甘くない。これからわずか1年半しかない時間だけれど,3名との関わりを私は「濃密な」ものにしたいと考えているとしたら,この3名はすでにこの時点で後悔してしまうのかしら。

こんなコメントをブログに書いてしまう教員を指導教員に選んだ3名にお願いがあるとすれば,どうぞどうぞ生意気になって欲しいということ。教えてもらうのでなく自ら学んで,私なんかはせいぜい踏み台程度にしか考えないで,成長してくれれば,あるいは少なくとも,共同研究者として一緒に研究を進めることができればと思う。

しかし,名門だなんて,このタイトルはちょっと大仰だったかな。

0 件のコメント: