2008年7月20日日曜日

学期の終わりのお引っ越し

別に好きこのんでこの時期になったわけではないのだけれど,火曜日はお引っ越し。春先にたまたま見つけたオンボロ一軒家に,とりあえず住めるようにするための手を加えていたら,いつの間にかこんな時期になってしまったというわけ。

もともと私は父の仕事の都合でごく短距離ではあるけれど,小さい頃から引っ越しを繰り返してきた。大学で東京に出るまでで9回,東京で2回(2回目の引っ越し,東京での3箇所目がこれまでのそれほど短くはない人生の中で最も長く住んだ場所である。たしか10年くらい同じ場所にいた)。その後のLondonでも4箇所に住んだ。帰国してから東京に戻る前に実家で半年を過ごし,その東京での3年の後,大阪にやってきて3箇所を通り過ぎて神戸にやってきたのが2年数ヶ月前。そして今回の引っ越しに至ることになる。通算22回目のお引っ越しである。

幸か不幸か梅雨も明けて,高校訪問,模擬授業,学期末でのレポート,成績評価,それに加えて実験準備,オープンキャンバスなどなど,枚挙に暇がない中での引っ越しなのだが,私が荷造りするのはただ私の部屋の中のものだけ。後は家人がせっせこともうずいぶん前からほとんどひとりでやっている。移り住む先の改装についても,キッチンのことを除けば私はほとんどタッチしなかった。家人は私などよりはるかに具体的なイメージを持っているようで,ちょっと気づいたところに口出ししても,ほとんど意味を持たない。また,意見を求められたとしても,正の強化を受けることはまずない。要は,消去されてきたのである。

22回も移り住んでいるせいか,またずいぶん年齢をとってから人並みの生活を始めたせいか,結構な年齢になった今でも,住むところにはあまりこだわりがない。家のつくりなどなどについてはこだわりがないと書いた方が正確だろう。大人になってからは,住む街にはこだわりたいし,自分の住処の中に自分だけの空間(つまり自分の部屋)は必須である。何ということと顰蹙を買うことを承知で書いてしまえば,子ども部屋はなくても自分の部屋は確保しなければならないし,その自分の部屋には,子どもたちであっても,自由な出入りは禁じている。

そのような自分の空間は確保したいという思いの一方で,その入れ物,つまり家を持つとかマンションとかを自分のものとして買うという発想はほぼ皆無に等しかった。毎週末に届くずっしりとした新聞の折り込みの束を眺めれば,なるほど家を持つことが多くの人にとってとても大切なことなのだろうことは何となく想像はつくのだけれど,30代から定年近くまでのローンを組んでということが,実行に移される必要があるかは,わからずにいたし,今でもよくはわかっていないのだろう。

にも関わらず今回このようなことになってしまって,段ボールの山とまだこれから詰め込まなければならない本やCDを眺めていても,そして移り住む先(今住んでいるところから車で5分とかからない)に何度か足を運んで,ほとんど移り住むことができるようになっていることを目の当たりにしていながら,まだ実感がない。

もう10年以上前のことになってしまうが,ロンドンに住んでいたときに,ときどき妙な感覚に襲われたことがあった。確かに私はそのときロンドンにいて,日々実験をし,パブに通い,コンサートに通っていたのだが,ここにいる自分とは別にもう1人,東京にいてあの懐かしい場所で変わらずに齷齪と生活している自分もいるのではないかしらという感覚である。なんだかそんな感覚がごく近い将来またやってくるのかなという想像を巡らせたりしている。

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