2007年10月5日金曜日

職業選択の自由の不自由または自由意志


きょうは出張。いつ頃から始まったのか,高等学校での模擬授業や進路相談。親和にも結構頻繁に業者主催のセミナーや高等学校からの模擬授業の依頼がくる。学科の教員で分担はするのだが,高校生と話すのも私はそれほど嫌いでない。  

きょうは進路相談だった。高校1年生,2年生がさまざまな大学,短大,専門学校から様々な学科,専門についての説明を受けるというもの。多いところには10数名固まっていたようだが,心理には残念ながら1年生が2人,2年生が4人とこぢんまりした集まりだった。

そもそもこのような説明会が必要な理由は何なのだろうと考えてみたことがある。職業選択の自由は憲法第22条で定められている。けれども,第24条の両性の合意にのみ基づくと規定した婚姻と同様に,家庭の事情,親の干渉などなどの理由によって,絵に描いた餅であるように見えなくもない。もちろん,現実でなく理想を掲げたものとして,つまり国の方向性を示すものが憲法であれば,それで一向に不都合はない。

今の高校生が,そうした親の意図や事情を離れて,全く自由に決めてよいと言われて,さてどの程度の高校生が「それでは」と明確な希望を自らの意志によって決められるのだろう。大学生でさえ,自分が何をしたいのかわからない学生が少なくないというのに。

行動分析学は,話が大仰になってしまうが,いわゆる「自由意志」を仮定しない。つまり決定論に立っている。スキナー(1971)の自由と尊厳を越えて(上の画像はクリックすると拡大されます)は,それ故に物議を醸した。自由意志を認めたいという「気持ち」は十分に理解できる。様々なものから自由でありたいと思うからこそ,人には自由意志があると信じたい。逆に言えば自由でないからこそ自由であると信じたい。白石冬美曰く「たがの中の幸せ」。とりわけ創造論を信じたい立場からは人と人以外の動物は峻別されねばならず,故にスキナーは許し難いのだろう。

職業に限ったことではないが,非常にたくさんの選択肢が存在する。すべての職業を知悉して,その中から自分の適性,志向,将来性,何を得たいかなどといった要因を考慮して,自由意志によって選択するなどということは到底出来ない相談である。今ここにあるもの,その中で自分が知っているもの,自分の能力やその職業に就くために必要な労力,お金などなど,多くの制約によってごく少数の選択肢に限られる。その中から選ぶのが「自由意志」であると言えばそうなのだろうが。

今の高校生や大学生が感じている戸惑いは自由度が高い,つまり選択肢が多すぎることが一因のように思える。あらかじめ親の仕事を継ぐと決められていれば,あるいは,選択肢としてAかBしかないようにな状況であれば,特別悩む必要もない。選択肢が多いからこそ,自由に選択してよいからこそ感じる不自由さ,そのような逆説的な状況にあることが,きょうのようなセミナーを必要とする理由のひとつなのではと思うのである。

きょうのオーディエンスは小さかったが,1年生も2年生もそれぞれそれなりに楽しんでもらえていたら嬉しいのだけれど。そして,心理学を自分の選択肢の一つとして具体的に考えてくれればいいのだけれど。

Skinner (1971). Beyond Freedom and Dignity. Indianapolis: Hackett Pub.

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